竹の魅力を多角的に表現し、竹が身近にあることが当たり前の時代を目指す。
株式会社ワカヤマファーム(若山農場)若山太郎さん
2021.03.05
親子3代にわたり100年余、「農業とは土づくりに在り」の言葉を信条に、自然循環型農法を心がけ、 筍と栗を中心に作り続けている若山農場。3代目であり株式会社ワカヤマファーム代表取締役である若山太郎さんは宇都宮北部に24ヘクタールほどの圃場を有するこの地で「竹を身近に感じてほしい」という思いを込め、竹材や筍・栗の出荷だけではなく、竹の植栽事業や観光事業等のさまざまな展開をしています。特質すべきはこの農場を観光として活用しようと思い立ったその視点。竹林の散策やライトアップは若い人にも好評です。若山農場の未来を切り拓いた若山太郎さんのこれまでの歩みをお聞きしました。
農家を継ぐつもりはなかった
若山さんは若山農場に戻られる前までは造園会社に勤め、その後、別会社の社長にまでなられています。将来的に農場を継ぐということを意識しての進路だったんですか。
正直に言うと実家の仕事はまったく興味がなかったし、戻るつもりはありませんでした。親から継げと言われたこともありません。だからといって具体的にやりたい職業があるわけでもなく……。自然と実家の仕事から遠すぎず、でも違う方向性の道を選んでいました。
東京農大に進学しましたが、そこでは農業ではなくて造園の勉強をしました。生まれ育った環境のせいか、自然が好きで植物に思い入れもありましたし、都市環境の中に植物を組み込むことに興味があったからだと思います。
卒業後、就職した会社はどのような理由で選びましたか。
売上と給料はいいけれど会社の規模は大きくないこと。なおかつ仕事をした分だけ評価されることが基準でした。いつか独立したい気持ちがありましたから、すべてを吸収できる規模がよかったんです。大規模の会社だと全体が見えないと思いました。入れるかどうかは別ですが(笑)。
ある造園会社の面接に臨むと、そこの社長と専務が「ウチは能力に応じていかようにも待遇するぞ」と言うんです。「独立が前提で、いろいろ勉強させてもらいたい」という私の希望をお伝えしても受け入れてくれたので入社を決めました。
その後、その会社の関連会社で社長になられています。社長を任せられるほどですから社内ではとても高い評価を受けていたんですね。
独立という目標があったからか、吸収するスピードが早かったようで、どんどん仕事をこなせるようになりました。大きな賞をいただいたり、設計の第一線で活躍する人たちと一緒に仕事をして人脈もできた。順風満帆でした。それで会社から声がかかったんです。今までの経験、人脈を活かして新しい会社を軌道に乗せてくれないかという相談を受けました。まさに私が望んでいた独立に向けて、会社経営を試すチャンスです。とても光栄な話で、飛びつくように受けました。現実は試すなんて甘いものじゃなかったんですけどね(笑)。
竹の植栽の可能性
社長になってからが大変だったということですか。
仕事をゼロから生む大変さを知りました。それまでは会社が用意してくれた仕事をこなせばよかったんです。ところが新しい会社では自分で営業して仕事をとってこないといけない。設計の先生方とお話をしていても、会社の後ろ盾があったときとは違います。もちろん多少の相手はしてくれますが、そこから仕事を得るのはとても難しいことでした。大きな勘違いをしていたんですね。自分は会社の看板で仕事ができていただけで、個人として特別な力を持っていたわけではなかったんだ、と。
社長になったことで己のたかが知れ、自分の力はこんなものなんだとわかりました。貴重な体験でしたね。
しかしその会社ではのちに竹の植栽をメインに売上を伸ばしていきます。流れが変わったのには何かきっかけがあったのでしょうか。
アメリカの近代建築を視察する旅行に参加することができました。いろいろと見て回りましたが、なかでもIBMの本社ビルが特に印象的でした。中庭に竹の植栽があり、見た瞬間「これだ!」と思いました。当時の日本は近代建築のなかに日本らしさを組み込むにはどうすればいいか模索されている時代だったんです。私はここで、それにはまさに竹がピッタリだと確信を得ました。
調べると、その建築に関わったスタッフの中に日本人がいて、その人が提案した植栽だったんです。さらにその方について調べると、偶然にもよく取引がある会社(日建設計)のランドスケープ室長の三谷康彦さんという方だとわかりました。当時の私では軽々にお会いできるはずもありませんでしたが、なんとか取り次いでいただけました。そこで竹の植栽について相談することができたんです。これが私にとって大きな出会いとなりました。
その出会いでどのように変わっていきましたか。
三谷さんは日本で竹の植栽はしないと言うんです。それはなぜなのか尋ねると、「竹というのは頭の先が柔らかく垂れる具合が美しいのに、日本では誰に頼んでも頭の先を切ったみすぼらしい竹しか持ってこない。だったらやらないほうがいい」とおっしゃるんです。確かに竹を植栽に用いるには性質上、取り扱いが難しく、さらに竹は頭を切るものだという日本における造園の伝統や慣習の問題がありました。そもそも竹は頭を残したまま建物に組み込むには背が高すぎるんです。このことを実家の父に相談すると「そんなことは簡単だ」と言うんですね。この頃、父は竹の品種改良に没頭していて背の低い竹を作っていたんです。
その話をすると三谷さんが視察に来てくれて、これならできると。日本IBMの本社ビル建設時、まずはそこに入れようという話になり、採用されると話題となりました。そこから多くの設計士が影響され、仕事が増えていき、その竹の植栽を私が任されている会社の売りにして、ビジネスを形にしていけました。
父が情熱を注いだ竹の品種改良が鍵に
三谷さんとの出会い、とても大きなターニングポイントでしたね。会社も軌道に乗り、いよいよ独立を考え始めたというところでしょうか。
植栽に使う竹は他に竹を専門に扱う業者が居らず、実家で用意させました。それを会社で買い取る形でやっていきます。竹の植栽をやるなら実家の竹なんです。それなら竹の生産も植栽も包括して実家でやるべきだなと思い、独立ではなく、戻ることを決めました。
お父様が背の低い竹の品種改良をしていたことも大きなポイントになりますね。これは若山さんがそういう竹を作ってくれとお願いをしていたわけではないんですよね。
まったくそんな話をしたことはありませんでした(笑)。もともと父は研究者気質の人間なんです。350年この地でつづく農家ですが、祖父の代で竹と栗の農業を始めます。そして父の代になってから徐々に栗より竹に比重を置くようになります。竹が花を咲かせるのは120年に一度だけなんですが、父はそれに出会ってしまうんです。それで花から種を手に入れて、品種改良に没頭していきます。身銭を切って研究に投資して、商売っ気はないものだから農場の経営は火の車でしたよ。
品種改良のなかで、お父様が背の低い竹に着目したのはどんな理由ですか。
一般的に筍は大きい方が味が良く、値段も高くなるんです。ところが東京の築地だと普通の市場と違い、料亭など上客が非常に多いんですね。そこで求められる筍は味・品質・鮮度はもちろんですが、小さい方がいいんです。小さい筍は姿のまま料理におさめることができて見栄えがいいからです。だから小さい方が高値になる。でも味は大きい方が良いんですよ。それが父は気に入らないんですね(笑)。ならいっそ小さい竹を作ればいいんだと。それで竹を小さくすることに情熱を注ぎはじめたようです。
予期せぬ事態、リーマン・ショック
若山農場に戻られてからは順調でしたか。
戻った当初は想像以上に経営状態が悪く、驚きました。ただ私の方は東京で結果を出していましたから、引き続き実家の竹を植栽に使うことで農場の経営は成り立ちました。苦労することなく増収になり、負債の解消も見えてきた頃です。8年目くらいまではよかったんですよ。そこでリーマン・ショックがあり、悪い流れになりました。
どのような影響を受けましたか。
当時は大きな開発、物件だけを受注していました。それがリーマン・ショックの影響で都会の開発が一気になくなると、植栽の仕事も当然なくなります。それに加えて戸建て住宅やお庭などの小口案件は竹を現地に運搬するコストの方が高くなるため、ほとんど扱っていなかったんですね。ここが大きな反省点でした。そういう問題点と向き合って、もっと一般の方に知ってもらう努力をしなければいけませんでした。結果として売上は一気に半分以下になりました。
順調なところから予期せぬ事態により売上が半分に。またそこから立て直すのは大変な気力が必要だったと思います。
最初の事業計画では引き継いでから10年で負債をゼロにするつもりでしたが、結局15年もかかってしまいました。反省点を改善し、経済の復活とともに少しずつ一戸建ての住宅メーカーさんにも取り扱っていただけるようになり、赤字にならない程度の経営基盤を確立することができました。
それだけ影響を受けながらも負債を精算し、かつ赤字を出していないのは経営手腕が優れていないとできないことです。
幸いなことに一次産業で、仕入れなどにかかる費用が少なかったんです。もちろんできる限り手は尽くしました。引き継いだときに最初にやったことが人員の削減です。それまでは人件費が赤字の原因でした。それからは自分も一人の労働者として働いて、少ない人数で頑張りました。あとは利益の出ない、というか時代に求められていない事業の見直しも図りました。
この空間を観光事業に
新たな事業に観光を選んだ理由はどんなところからでしょうか。
理由はたくさんありますが、この土地がロケ地に使われていることが一番のきっかけです。特に「るろうに剣心」の映画でロケ地になったことが大きかったですね。全国から役者さんのファンが押し寄せてくるんです。そういう方たちを案内すると、最初は映画や役者さんの質問をしてきます。でも案内が終わる頃には竹林の感想を言ってくれるんです。実際に見て、歩いた人たちが役者さんよりも竹林に夢中になってくれている。この空間は素晴らしい観光地になると自信が持てました。新しい事業として、竹林から分け与えられたものすべてを使った観光地にしようと思いました。筍も取る、切った竹も売る、でも若山農場にはそれだけじゃない、まだこの空間があるじゃないかと。それが次にやるべきことだと確信したんですね。
どのような切り口で展開をしていくか、そこが大きなポイントになると思います。具体的にどう展開をしていったのでしょうか。
観光事業を始める以前から、多くの旅行会社がたけのこ狩りツアーを組んでくれていました。気候の関係でゴールデンウィークの時期にたけのこ狩りができるのは全国でもここだけなんです。ところが東日本大震災後に放射能の風評被害を受け、一度はそれがゼロになりました。うちの筍はすべて検査していてその証明書もつけられる、まったく問題ないものなんですけどね……。そんなことがありつつも、騒ぎが収まった頃、一番最初にツアーの取引をした旅行会社さんが戻ってきてくれました。そのときにたけのこ狩りだけじゃなく、この空間を散策して楽しむプランを作ってもらいたいと相談をしたんです。それを担当者の方が快く引き受けてくれて、ツアーを組んでもらえました。
ツアーの手応えはどうでしたか。
やってみると満足度が驚くほど高かったようで、旅行会社から定期的にやりましょうと言ってもらえました。多い時は月に10台ものバスが来るほどになりました。それから環境整備をしたり、面白い案内ができるように工夫しました。人気が高まるにつれて他の旅行会社も気になり始めたようで、いろいろな旅行会社からツアーを組ませて欲しいと声がかかるようになりました。
竹の魅力を伝えていきたい
3代で守ってきたこの土地、この空間が多くの人に喜ばれる、とても嬉しいことですね。
本当にその通りです。でも、だからこそ来てくれるお客様一人たりとも手を抜けないとひしひしと感じています。信用を失うのは簡単で、一瞬です。多い日は300人ほどのお客様がいらっしゃいますが、全員に直接見どころをお伝えしています。そして最後に感想を伺う。この2つを可能な限り続けるんです。1日に同じ話を何百回とすることになりますが、私はそれを全従業員に求めます。そういうことを大切にしているんです。
経営者としての手腕をいかんなく発揮されていますね。社長経験も活かし、数年後を見据えた事業計画がしっかりとできているように感じます。
謙遜ではなく、私自身は優れた人間だとは思っていないんです。祖父が守ってくれた土地、父が情熱を注いで生み出してくれた竹、そこにいい出会いがあったから今があると思います。私はただそれらをつなぎ合わせて、必死にやってきただけなんです。
夢見がちな部分があって、こんなことをしたら面白いんじゃないかとか日頃から想像を膨らませています。でも臆病な性格で、失敗することや負債を抱えることはとても怖がります。だから楽観的に何かを始めることはありません。ただ可能性を追い求めることは好きで、常に夢だけは持つようにしていますね。
今後はどのような展開を目指していますか。
今の世の中、竹は厄介者です。勝手に増えて他の木を枯らせてしまう。処分も難しいから竹害(ちくがい)なんていう言葉もあるくらいです。でも私の商売の一番のキモは竹の居場所を見つけること。木陰を作り、見た目にも清々しさがあり、実はヒートアイランド現象を解消する機能もある。SDGs(エスディージーズ:地球環境や自然環境が適切に保全され、将来の世代が必要とするものを損なうことなく、現在の世代の要求を満たすような開発が行われている社会)という持続可能な社会をつくっていくなかで竹ほど向いている植物はありません。
竹の良いところを理解してもらい、もっと身近に竹を感じてもらい、竹を好きになってもらいたい。そして、もう一度みなさんの身の回りに竹が当たり前にあるような時代が来てほしい。それが私の一番の願いです。
さらに、観光を始めたことによって、今も新しい出会いが続いています。これからもこの出会いをを大切にして、その方たちのお力をお借りしながらもっと楽しいこと、新しいことを始めていきたいと思っています。是非、今後にも期待してください。
(取材・文/村松隆太)
Information
【株式会社ワカヤマファーム(若山の杜 若山農場)】
〒320-0075 栃木県宇都宮市宝木本町2018
TEL:028-665-1417
HP:https://www.wakayamafarm.com