アンティークになるまで
アメリカの作家レイモンド・カーヴァ―の作品の中に『大聖堂』という短篇小説がある。多くの短篇はどれも優れた佳作揃いである。ちょっと不仲な夫婦の何気ない日常、その中に差す一条の淡い光、それは未来に繋がる希望のようでもあるし、全くその場限りの心の揺らめきであったかもしれない。そんな人間の小さな営みを描いて秀逸である。ふっと読み返したくなるのは私だけであろうか。
その中の一篇『大聖堂』を読みながら思い出したことがある。確か2、3年前、2019年に起きたパリ・ノートルダム大聖堂の火災である。テレビに映し出された燃え盛るその様子を眺めて私は先ず「あの薔薇窓のステンドグラスは大丈夫だろうか」という思いで一杯になった。このカトリックの大聖堂は初期のゴシック建築の傑作であり、フランス国のシンボル的建物として市民に親しまれている。とりわけ素晴らしい造形の3対の薔薇のステンドグラスは、何物にも代えがたいフランス国の宝物であろう。
幸い薔薇窓は延焼を免れ、フランス国民も私たちも不幸中の幸いであるとほっとしたことであった。実際私は30年ほど前にそこに立ち、観光客として薔薇窓を圧巻の思いで眺め入った一人であったから。陽の差し方でどのような光の変化があるのだろうか、あの深紅の薔薇は黒っぽいベルベットのような雰囲気になるのだろうか、などと連想は続き一日中そこに立っていたい思いであった。
およそ800年の歴史を経過しているであろうか。当時のガラス工芸の技術の中で、不純物が混じっていることによって微妙な陰影が出来て、よりクラッシックでアンティークな趣に満たされるそうである。それにしても歴史の重みはすごい、ガラス製品の名作であると思う。
カーヴァ―の『大聖堂』は夫と妻と妻の友人の一夜の些細な出来事を語っている。妻の友人は全く目が見えなく、夫は初対面のその盲人とどのように向き合っていいか困惑している。テレビをつけるとどこかの国の大聖堂が映し出され、大聖堂(カセドラル)を見たこともない人にどう説明しようかと悩む。盲人と手を取り合って聖堂を描くラストシーンは感動的である。しかし私の思いは他のところにあった。いくら手でなぞらえても、おおよその形は浮かんでも、色だけは伝えることが出来ないのではないかと。聖堂にはステンドグラスはつきものだが、そこの雰囲気を醸し出す色と形は何としても伝えることは不可能である。
私はそっと目をつむってみる。カセドラルを思い起こせば嫌が追うでも輝く「薔薇窓」が頭全体を覆い尽くす。こうして目が見えるということは奇跡なのである。
私は今大いに不埒なことを考えている。アンティークと呼ばれるまでには100年。ガラスの小さな粒の集合体ビーズで作られたビーズフラワーは100年の長き重さに耐えられるだろうか。「薔薇窓」は800年生き続けなお世界の人々を魅了し続けている。
いつ頃のことか、小さな教会に飾られたビーズフラワーの薔薇のリースはどのように色姿を変化させてそこに在るのだろうか。100年後に私は蘇る。