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紺碧の将
Interview Blog Vol.119

自分の「好き」に導かれるまま、自由に生きていく。

ギャラリーバーン オーナー清野隆さん

2021.09.06

 

栃木県那須塩原市にあるアート&レンタルギャラリーのギャラリーバーン。オーナーの清野隆さんは会津に生まれ、中学卒業後に単身東京へ。デザイン・企画関係の仕事をこなし、やがて独立しました。しかし清野さんはデザインの仕事に区切りをつけ、アーティストとしての活動を始めます。なぜその道を進む選択にいたったのか、ギャラリーバーンの誕生秘話とは? 清野さんのこれまでの歩みとともに、いろいろなお話をお聞きしました。

単身、東京へ

東京でデザインや企画の仕事をされていたとのことですが、その道に進まれたのは子供の頃からそうなりたいという思い、目標のようなものがあったからでしょうか。

 漠然と「こんな生き方をしたい」という思いはありましたが、具体的にどういう道に進むか、なんの職に就くかまでは考えていませんでした。中学を出たら働かなくてはいけない事情がありましたから、それならば東京に出て何かやりたいと思ったんです。

デザイン・企画の仕事をするようになったきっかけはどのようなものでしたか。

 なにかをやりたいという気持ちだけはありましたが、右も左もわからない状況でした。そんな時、同郷のデザイナーの人と知り合い、その方が企画会社に誘ってくれたんです。それがこの業界に入ったきっかけでした。

そこではどのような仕事をしましたか。

 僕らの時代は企画書は手書き、印刷は版下・写植でした。学歴もなにもいらない、スケッチを描けてアイデアがあれば仕事ができたんです。ラフスケッチでプレゼンボード(提案内容や仕上がり想定をクライアントに示すためのボード)を作ったり、「このタレントを使ってここで振り向いて子供と会話している」みたいなテレビCMの絵コンテを作りました。

スケッチを描けたということは、絵が得意だったんですね。

 子供の頃は勉強そっちのけでノートの端に鉄人28号とか零戦などを描いていました。模写をたくさん描いていて、長く続ければそれがやがて技術になるんですね。絵が描けることで仕事をもらうことができました。そういう経験があるから、僕は子供たちに「努力や根性を掲げて好きではないことを続けるよりも、好きなことをやり続ければそれだけでいいんだ」と言うんです。僕がそのように生きてきたからね(笑)。

自分の好きな生き方をするために

栃木県那須塩原市に転居されたのにはなにか理由があったのですか。しばらくはそこから東京に通われていたんですよね。

 子供ができたら緑が豊かで、四季が感じられるところで暮らそうと思っていました。そういう環境で子育てをしたいと考えていましたから。那須塩原市は求めていた環境であることに加えて、そのころちょうど新幹線が開通したことで、東京に通勤しやすかったんです。

 お金持ちになって東京で暮らそうとはまったく思いませんでした。将来は田舎で釣りをしながら畑を耕して生きていければいいと思っていたんです。

最初に「こんな生き方をしたいという思いをもって東京に出てきた」とお聞きしましたから、いわゆるサクセスストーリーを夢見ていたと勝手に思ってしまいました。そういうわけではなかったんですね。

 自分の好きな生き方を尊重し、自由に暮らしたいという基準があり、実際に「こんなふうに生きていきたい」をずーっと実践してきました。それは今もです。だから仕事で成功して時間をそれに割かれてしまうより、自分の楽しみを得られる生き方をしたいと考えていました。僕は徹夜で仕事もしたことがないし、土日も働いたことはありません。当時のデザイン業界ではかなり珍しいと思います。

仕事のスピードが相当早くないとなかなかそうはできませんよね。

 早かったと思いますよ。例えば来週までにこれをやれと言われたこともすぐにできました。それで余った時間を好きに使えたんです。

しかし早く仕事を終えた分、次の仕事をすぐに回されるのではないですか。

 仕事が終わったら与えられた期日のうちは事務所に行かないんです。携帯電話がない時代なのが良かったですね。事務所にいないから僕宛てに電話をかけてもほぼつながらないですね。「誰だ清野を管理してるのは」って言われていたらしいです(笑)。

ギャラリーバーンの誕生

その後、自分でデザイン会社を立ち上げ独立されています。

 いろいろな人間が関わると意見や考え方に違いが出ます。それに雇われの身だと、どうしても窮屈になり、自由がきかなくなりますから、だったら独立しようと思いました。「よしやるぞ! 成功するぞ!」という意気込みはなく、とにかく自由にやりたかっただけでした。それから10数年がすぎて、東京でデザイン会社を経営しながら栃木でギャラリーバーンをつくりました。デザインの仕事はある程度区切りをつけて、今度は図画工作家として自分の作品を作って生きていこうと思ったんです。

思い切った方向転換でしたね。デザインの仕事に区切りをつけたのには理由がありましたか。ギャラリーを持つことはいつ頃から計画をされていたのでしょうか。

 コンピューターの発展とともに、デザインの仕事がつまらないものになってきました。報酬もどんどん安くなる。薄利多売でやっていては自分の求めている自由など得られません。だからデザイン・企画を仕事の軸にするのはもういいかなと思いました。完全に辞めたわけではありませんが。

 それで作家としての生き方を目指したわけですが、ギャラリーをやることまでは考えていませんでした。実はギャラリーバーンを作ろうと思ったのは偶然で、最初から綿密に計算していたわけではありません。そもそも盛岡にいる親を栃木に呼び寄せたくて、物件を探していたことが始まりでした。このギャラリーはもともと木工場で、すぐ隣にモデルハウスがありました。木工場ではなくてモデルハウスだけを買うつもりだったんです。ところがこの木工場がチラシを出しても何をしても売れなかったらしくて。それなら買い取ってここをアトリエにしようと思ったのが事の発端でした。弟も絵を描いていましたから、ちょうどいいと思って。結局アトリエにしては広すぎたため、ギャラリーもやることになったのがギャラリーバーンの誕生秘話なんです。

会社経営をやめ、作家としての人生に舵を切ることに不安などありませんでしたか。

 こんな場所でギャラリーなんて無謀だと言われましたよ。でも僕自身は楽観的でした。改装もあまりお金をかけずやりましたし、人も雇いませんでしたから、まったく深刻にはなりませんでした。

 場所をレンタルしたり、音楽会などのイベントも企画し、少しずつ認知され、人が来てくれるようになりました。安定はしていませんが、なんとかはなっているんですよ。他に地域の仕事を請け負うこともありますからね。

図画工作家としての活動

地域の仕事とはどんなことですか。

  看板製作やラッピングバスのデザインなど、他に企画物もありますし、東京でやっていた仕事を活かせるものが多いですね。

アーティストとして活動の他に、今まで培ってきたスキルを活かしてまだまだいろいろな仕事をされているんですね。

 そういう仕事をできるのは息子の力が大きいですね。彼はコンピューターのスペシャリストですから、僕のデザインやアイデアを全部データ化してくれるんです。グラフィックもできますから、企画・提案をするときも鮮明で正確なプレゼンボードを作ることができます。全部を具現化できるから、プレゼンも非常にやりやすい。それだけじゃなく、システム構築の仕事もやっていますから、コンピューターに関してはなかなかのものだと思いますよ。親バカで言ってるわけじゃなくてね(笑)。

その上でアーティストとしての活動も精力的にやっています。

 僕はアーティストではなくて図画工作家と自称しているんです(笑)。デザインや企画の仕事は息子にだんだん任せられるようになりましたから、図画工作家としての活動量はすごく増えてますね。春には毎年巣箱を70個ほど作るんです。自然を見つめてもらえるようなきっかけになればと思ってね。他にもペーパークラフトを作ったり。観に来てくれた人が「おもしろいね」と思ってもらえる物を作りたいですね。

他に「つながるひろがるアート展 NASU」など地域に根ざした催しも中心となってやっていますね。

 「つながるひろがるアート展 NASU」はもう10周年を迎えました。那須地域に住むハンディキャップを持つアーティストたちの作品を紹介するイベントです。今は自分のことだけではなく、人と人とのつながり、地域とのつながりを大事にしていきたいと思っていて。地域の役に立ちたいと思っているんですよ。

その子の「好き」を何よりも優先する

息子さんはコンピューターのスペシャリスト、娘のミナさんはハンディキャップを持ちながらも素晴らしい絵を描くアーティストとしてご活躍していますね。子育ての秘訣を教えてください。

  僕は子育てなんてしていないんですよ(笑)。学校に行きなさい、何かを習いなさい、そういうことは一切言ったことがない。コンピューターも絵も、学歴ではなくどのくらいその分野を突き詰めることができるかですからね。

 親の立場で言うことは「好きならやりなさい」だけ。そうとしか言えないんですよね。いい学校を出て、いい会社に就職して、お金を稼げるようになりなさいという考えはウチの家庭にはありません。妻も同意見です。

ミナさんの絵は本の表紙にも採用されたり、作品展もたびたび開かれています。緻密で色彩感覚に優れた作品にはファンも多いと思います。ハンディキャップを持ちながらも、この才能をまっすぐ伸ばすことができたのも、好きなことをやりなさいという家庭環境があったからこそでしょうか。

 そういうポリシーがあるのかと言われれば、そんなことはないんですよ。どんなことでも根っこにあるのは「自由でいい」なんです。そんなに重く深く考える必要なんてない。自分のやりたいことだったらやればいいじゃないか、それだけです。

 娘がチラシの裏に絵を描いているのを見ていると、この子は描くことがほんとに好きなんだなと思いました。画材を与えたらもっともっと楽しそうに描き始めた。絵を描く、それだけで彼女はすごく幸せで楽しいんだと思うんです。例えそこまでの才能がなかったとしても、本人が楽しいことを見つけることができれば、それをしているだけでその子は幸せでしょう?

 娘はダウン症でコミュニケーション能力はあまりなくても、誰かが自分の絵を見て喜んでいることや、自分の作品の展覧会をやっていることはわかるんですよ。そうすると本人も喜んで、もっと描いてみようという気になってくる。この子が好きなことをやっているとこんなに嬉しそうな顔をしている、こんなに一生懸命やっている、親としてはそれだけで充分なんです。

アートを活かした街づくり

今後はどのようなことをしていきたいですか。

  今、「アートを活かした街づくり」のプロジェクトに関わっていて、この地域をアーティストの街にしていきたいと思っています。田舎でのんびり暮らしたい人は引っ越してくるけど、それよりも出ていく人の方が多いのがこの地域の現状です。高齢化が進み、若い人がどんどんいなくなっています。だからもっとこの地域ならではの可能性を示せればいいんじゃないかと考えています。

 例えば空き家対策も兼ねて、アーティスト専用のアトリエに活用してもらう。都会で我慢を強いられながら作品を作るより、ここでは貧乏でもゆとりのある生活ができるからアトリエを持つにはすごくいい環境なんです。そしたらギャラリーバーンでその人たちの作品の展覧会もできますからね。

このあたりはもうちょっと進むと那須高原の観光地ですからね。そのように明確な特徴を持った街づくりができれば、どんどん活気は出てきそうですね。

  ウチではコーヒーを無料サービスしているんです。おしゃれなカフェは観光で来た人が行くけれども、地元の人は毎日通えるわけじゃない。ギャラリーバーンはこの地に根を下ろしている人たちがもっと気軽に、のんびり集まれる拠点にしていきたいと思っています。ここでコンサートをやりたい、展示をしたいと思ったら、相談してもらえれば安い金額でレンタルも可能です。やがてアーティストが集まり、地元に住む人たちが絵でも見に行こうかという気持ちを育むような街づくり。そういうアートを活かした街づくりをしていきたいですね。

(取材・文/村松隆太)

Information

【ギャラリーバーン】

〒325-0035 栃木県那須塩原市小結88-197

TEL:0287-64-2288

HP:http://barn.jp/

 

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