〝人間万事塞翁が馬〟からたどり着いた海外での解剖実習を経て、一人ひとりに寄り添った施術をしています。
J.M.トレーナー院長安達淳子さん
2021.12.23
四ツ谷の閑静な住宅地のビル地下1階にある鍼灸マッサージ治療院「J.M.トレーナー」。院長の安達淳子さんは、ハワイ大学の解剖実習で人体の構造を学ばれたスポーツトレーナーです。長年、女子サッカー代表の「なでしこジャパン」や数多くのスポーツ団体のチームトレーナーとして活躍された後、ハワイ大学で解剖実習の経験から一人ひとりの身体に寄り添いながら施術に励まれています。解剖実習で忘れられない一つが献体との出会い。3ヶ月にわたり解剖していく献体は、〝沈黙の先生〟でもあったという安達さんの来し方と仕事への向き合い方を伺いました。
鍼との出会い
治療院を開業されて何年ですか。
鍼灸マッサージの学校卒業すぐの1989年開業ですから32年になります。最初は早稲田の木造ボロボロアパートでオープンし、6年後、四谷三丁目のビルに移転、その後13年前にこちらに場所を移しました。
スポーツトレーナーになろうと思ったきっかけはなんですか。
鍼灸の専門学校に通っていた時、研修を兼ねてアルバイトをしていた治療院でスポーツ選手を診ることが多かったんです。その時初めてスポーツ選手たちが体のメンテナンスに苦心していることを知りました。手探りでしたが、彼らの力になりたいと思ってメンテナンスのお手伝いをしていたのですが、その時にスポーツトレーナーという仕事があることを知り、興味を持ちました。
そもそも鍼灸の道に進もうと思ったのはなぜですか。
高校の頃に、たまたま本屋でサイエンス本を立ち読みしていたら、身体のツボを写真で捉えたという記事を見つけて興味を持ったんです。のちにそれは偽物だったことがわかるのですが、その時は興味津々で、読むうちに鍼師という仕事があることを知り、ちょうど進学先を決める頃でしたし、以前から手に職をつけたいと思っていたので、鍼の仕事なら面白そうだし一生の仕事になるんじゃないかと思って鍼灸の専門学校に進みました。
鍼灸の専門学校に行くことに対して、ご両親の反応はどうでしたか。
母は手に職をつけることに賛成していたので問題はなかったです。父は基本的には大学に行って欲しかったと思いますよ。ただ、行くなら国立と言われていましたから、それは最初から無理と思っていました。それに私は大学に行くよりも技術を身につけ、一人でも食べていける力が欲しかったんです。
ちなみにご出身はどちらですか。
生まれは横浜です。その後、大阪、名古屋、東京と引っ越しが多かったです。高校の頃は埼玉に落ち着いていたのですが、専門学校に通うことになって、一人暮らしをしている東京の叔母のところに居候させてもらいました。この叔母は、日本か東京で、初めて女性で校長になったとかで勲章もいただき、親戚の中では一目置かれていました。その叔母から埼玉から東京の学校へ通うのは大変でしょうからと居候の件の手紙が届いたらしいんですよ。それを読んだ母が「ここにいたら私みたいになるから行きなさい」と言って私の背中を押してくれました。
「私みたいになる」とは、どう意味でしょう。
母は田舎育ちで高卒でしたし、仕事もしたことがない世間知らずな人だったので、私には叔母のもとで鍛えられ社会人として恥ずかしくないようにとのことだと思います。しかし、当時は意味がわからなくて、ただ家を出たいという思いだけで叔母の家に行きましたが、あとになって母がああ言ってくれてよかったと感謝しています。
叔母さんとの新しい生活はどうでしたか。
もう厳しいの一言ですね。トイレの使い方からご飯の食べ方まで、全部注意されるんですよ。料理、洗濯、生活全般、「基本のき」を叩き込まれました。当時は辛さより、驚きの方が勝っていました。あんなことを言ってくれる人はいないですから、厳しかったけど、治療院を開業し続けていけるのも叔母のおかげだと感謝しています。2年半くらい、そういう生活が続きました。
治療院でアルバイトをしていたとおっしゃっていましたが、そこは学校からの紹介ですか。
いいえ、友人に誘われて行ったところです。それもたまたまというか、専門学校の入学式で出会った同級生と友達になり、彼女が知り合いの鍼灸の先生のところに見学に行くというのでついて行ったんです。先生から「うちで働かないか」と誘われて、その気はなかったんですが……。アルバイトというより、見習いですね。
そこでは何年間アルバイトを?
2年半くらいです。母が亡くなり、埼玉の実家に帰ることになって辞めました。20歳の時です。辞めるまでの2年半は専門学校と並行して、ほぼ休みなしで働いていました。
独立・開業、トレーナーへの道へ
学校を卒業したあとは、どうされましたか。
就職はせず、卒業後すぐ2年ほどサウナやホテルでアルバイトをしながら開業しました。同時にトレーナーの勉強をしようと思い、知人のつてを頼ってハワイ大学にトレーナーの見学に行きました。
なぜ就職せずにいきなり開業しようと考えたのですか。
アルバイト先の治療院の先生にとてもお世話になっていましたし、卒業後も働いてほしいとは言われていたのですが、自分が求める方向性とは違っていたので、それなら自分で開業した方がいいだろうと思って、資金づくりとトレーナーの勉強をしてから開業に踏み切りました。
ハワイ大学には留学されたのですか。
いいえ、ハワイ大学にいるトレーナーの仕事を1ヶ月見学させてもらいました。大学に通うとなると英語も勉強する必要があるし、そうなれば時間もかかる。だったら、毎日大学に通って、テーピングの巻き方から、巻く時間まで、事細かくチェックしながら学ぼうと思いました。日本でもなんとかできるんじゃないかと思い、入学せずにノウハウだけをもらって帰ろうと思ったんです(笑)。ハワイ大学に知り合いがいるという知人にホームステイ先を紹介してもらい、そのルートで見学を申し出たら、意外にすんなりOKが出て見学することができました。
それは言葉を介さなくてもわかるのですか。
実技は本を読むことより分かります。そうやって見て覚えて、あとは何を本から勉強するか、カリキュラムの内容を聞く。当時の日本は、トレーナーという仕事がまだまだ認知されていなくて、知識や技術を教えている学校も本もほとんどなかったんです。それなら本場のアメリカに行って見てきた方が早いだろうと思いました。それが、22、3歳くらいの頃でしょうか。
お一人で開業されたのですか。
もちろんです。ただ最初は、ほとんど来院する人はいなかったですね。自分では技術はあると思っても、そう甘くはない。だから、自分でチラシを作って夜に配ったりもしました。家賃も払えないので、夜にサウナでアルバイトもしたり。それが3年くらい続きました。
そうやって地道にやっていたら、ポツポツと近所の人が来てくれるようになって。そのうち人づてでスポーツ関係の人が多く来られるようになり、少しずつ軌道に乗っていきました。
スポーツトレーナーとしてのお仕事もその頃始まったのですか。
最初は主に大学の陸上部や野球部等の学生たちが来てくれて、そこからの紹介で、企業のスポーツチームや大学チームなど、本格的なトレーナーの仕事の依頼がどんどん増えていきました。それと並行して、いろんな大会に帯同するようになり、のちに「なでしこジャパン」となる女子サッカー代表の専属トレーナーとしてオリンピックに帯同するようにもなりました。代表チームの専属トレーナーは1993年から2006年まで務めました。
解剖実習との出会い
どうして解剖実習をすることになったのですか。
実は突然、なでしこジャパンのトレーナーを解任されたからです。2008年のオリンピック帯同時の治療院の留守に備えスタッフを多めに雇っていたため、一時的な人余り状態になってしまいました。精神的にも落ち込んでいて、思い切って半年間ハワイ大学に語学留学兼、再度ハワイ大学のトレーナズルームへ行くことにしました。その時に初めて解剖実習をしました。
トレーナーの見学中に、解剖の実習もあったということですか。
いいえ、学校が発行しているアウトカレッジという卒後研修用パンフレットで見つけて、3ヶ月間、週2回の解剖実習セミナーに参加しました。
アメリカの解剖実習はメスを持って自ら解剖するセミナーなのですね。
そうなんですよ。日本ではすでに解剖されたご献体を見学する授業は2日ぐらいあったのですが、組織に手で触れメスで切る解剖実習は初めてでした。筋膜と筋膜の重なっている部分を剝がすときの感覚や、靭帯や腱の付き方。筋肉や神経、血管の多寡から形状の異常を見つけるたびに施術中疑問に感じていた症例と重ね合わせたりしながらその先を追っていく。臨床に立つ者には大きな経験でした。
当時、ハワイから友人の医師にメールで「このようなセミナーを私は日本でも受けることができるのか」と質問したところ「日本では医師以外の解剖は死体損壊罪になる恐れから一般的に行っている大学はない」とのことでした。その中でも、名古屋大学の解剖学教室が年に1回、医師以外の医療従事者の教員などに限定して行っていることがわかり、その後、名古屋大学解剖学教室の教授にはいろいろとお世話になることになりました。
3ヶ月間、どのようなスケジュールで学ばれていたのでしょう。
午前中は語学研修、午後はトレーナー見学、セミナーがある時は夕方6時から9時まで実習というのが基本でした。解剖実習は日本で受けることができないセミナーなので、少しでも多く吸収して帰りたいと思い、解剖部位の英単語を腕じゅうに書いていたんですよ。発音がわからないのでメスで自分の腕をさし、先生や仲間に確認をとっていましたが、アメリカ人から見れば変な日本人と思ったでしょうね。
そして、もう一度受けることはできないかと解剖実習後半に担当講師に聞いたのですが、アメリカ在住でなければできないことをその時知りました。
それで、どうされたのですか。
まず、日本で私が受けられる解剖実習があるかを調べました。名古屋大学解剖学教室を見つけメールで問合せしたところ、条件が合わず受講できないことがわかり、とりあえずハワイ大学に嘆願書を出すことにしました。
ハワイ大学の解剖実習が医療受持者にとってどれだけ必要で有意義なセミナーだったかということや、日本では倫理上から医師以外の解剖は実習でも認められていないことも伝え、ハワイ大学で再度受けることはできないかと3度担当講師を通して学長に手紙を出し続けました。
あきらめかけたころ、返信が来て直接会うことになりました。面談では手紙の内容を再度伝えた後、学長から日本人だけの特別セミナーとして5日間だけ開催する案を提示されました。
解剖実習の伝道
帰国後はどうされましたか。
解剖実習の条件を持って日本に帰ってきたのは良かったのですが、帰ってきたら帰ってきたで日本は閉鎖的で、残念ながら1回目は実現しませんでした。
その後、名古屋大学の元解剖学教室の教授に会いに行きハワイ大学で授業をしていただけないかと相談したところ、東京在住の先生を紹介されたのですが、実はその方とはすでに顔見知りで、何度も患者を紹介していたのです。その解剖学の先生を慕って日本全国から解剖実習参加者が集まり無事開催できることになったのですが、あの3.11の大震災が起こったのです。
2011年の、あの時だったのですね。
そうなんです。実現するために必死で準備を整えて「いざ出発」という間際でした。これは大変なことになった、世の中の流れは自粛ムード一色で参加者はキャンセルするだろう、そうなればこの損害を全部被らないといけないと覚悟しつつ、不安は募るばかりです。でも、とりあえず帯同を依頼した先生の意見を聞いてみようと思って訪ねていくと、「いま私たちが日本にいても何もできません。セミナー開催は問題ないです、実行しましょう」と返ってきて、一気に参加者たちの気持ちは一つにまとまり、3月21日、成田を出発しました。
最初に行ったのは、留学を終えて何年後ですか。
2年くらい経っていましたね。その記念すべき最初の渡米が、3月11日の大地震のあった10日ほどあと。普通ならキャンセルになってもおかしくない状況です。何かに導かれているような感じでした。
3月21日の成田空港は福島原発の危機から多くの外国人が日本脱出をかけて殺気立っていました。
成田空港内は臨時のパスポート発行所が設けられ、国旗と粗末な机とパイプ椅子に座った1名の大使館職員がいるだけ。そんな中で、私たちは異質な存在でした。日本を離れる飛行機はどれも満席で、私たちは機中から日本を見下ろし、無事帰ってこれるか、残した家族にまた会えるかと不安でいっぱいでした。
大震災で日本中が大変な中、セミナーなど開催し不謹慎という世間の目もあったためか、みんな一生懸命、集中して学んでいました。熱量が違いましたよね。今振り返っても、1回目のセミナーほど素晴らしい授業はなかったです。その後、4回目まで解剖実習セミナーは続きます。
大体どれくらいのペースで行われたのですか。
2年おきくらいです。最後の4回目が、コロナになる前くらいでしょうか。回を追うごとにハワイ大の都合で実習期間が短くなり、料金も2倍になり、4回目を最後にひとまず区切りをつけました。
大学では年に一度、ご献体の慰霊祭が行われるんですよ。私にとってご献体は大切な先生でしたが、これまで忙しくて一度も参列したことはなかったのですが、平成28年、初めて慰霊祭に参列しました。少し早く行って祭壇に日本から持参した千羽鶴とくす玉をかけたら感謝の気持ちで涙があふれてきてしまい、あいさつに来てくれたハワイ大学の方が話しかけるのをやめてしまったほどです。
最後は遺骨をカヌーで沖へ運び、遺族と関係者が岬から見守る中、海に撒くんですよ。
死者の意志の継承へ
解剖実習を経験する前後で、何か変わりましたか。
まず、治療の解釈が変わりました。学ぶ前は症状を聞いて触って、症状と症例を本で見たまま当てはめて「これはこうだ」と決めつけることもあったけれど、学んだあとはそうは思わない。一般的にはそう言われているけれど、本当だろうかと疑ってかかるようになりました。人体の多様性を意識するようになったんだと思います。
解剖実習は、1回につき男女それぞれのご献体を1体ずつ解剖するのですが、私の場合それを5回、全部で10体のご献体を解剖したことになります。1回につき男女の解剖を行うのは、性別が異なるからです。回数を重ねると、男女差だけじゃなく、1体1体すべて違うことがわかります。だから1体を解剖したからわかるという問題ではないし、もっと言えば教科書や専門書などを見てそれがすべてだと思わない方がいい。教科書はあくまでも標準値です。
そんなに違うものですか。
ぜんぜん違いますね。長年、施術をしていると理解不能な症状や反応を経験してきましたが、その原因や誘因を想定することができるようになりました。症状を聞いたり触診して総合的にみて治療を進めてはいても、症状がなかなか治らないという人は、筋肉が痛んでいるだけじゃなくて、元々の筋肉の多寡や形状の違いから発生している可能性もあります。左右で筋肉が違うのは当然ですし、余分な筋肉が片方だけあったりもする。要は、顔と同じくらいに人それぞれバリエーションがあると思った方がいいということです。個人個人まったく違うということを解剖実習が証明してくれました。
解剖実習を経験して、身体の違いを知ったこと以外に、何か感じたことはありますか。
特に感じたのは、亡くなった方の意志でしょうか。これは初めての感覚なんですが、「死者との出会い」というものを感じました。解剖実習をするうちに、なんだか亡くなった人が生きているような気分になったんですよ。だって、わざわざ無残な姿になることを自ら望む人はいないでしょう? 生前にそういう取り決めをするわけですが、体を差し出してくれた方の思いというのでしょうか、そういうものをご献体から感じるようになったのです。亡くなって声は出せませんが、「しっかり余さず見て、その知識を誰かのために生かして」と聞こえます。とかく、現代ではお金で物事は動き、金銭的利益がすべての評価基準となりがちですが、お金とはまったく無縁の精神に触れ、自分が恥ずかしくなるのと同時に、慈愛に満ちたご献体の声に心を洗われる思いでした。
死者との出会いですか。
ええ。慰霊祭に行った時も慈愛に満ちた先生にお会いする感じでした。
解剖実習で胃を開いたときにピーマンがそのまま出てきたことがあって、その時「あぁ、この人は苦しまないで亡くなったんじゃないかな」って思ったら、良かったって涙が思わず出て、ホルマリンが目に染みているふりをしてごまかしたこともあります。
解剖実習の初日は怖くて顔も見れないし夜はうなされて目が覚めるありさまでしたが、回数を重ねるうちに顔を見て心で話しかけられるようにもなりました。
ですから私は、解剖最終日、忘れ物を取りに行くふりをしてこっそり花の代わりに折り鶴を遺体袋に入れていたんですよ。(※花は腐敗するため遺体袋には入れられない)
のちにその鶴が遺体袋から出てきた件は解剖実習教室の学長の印象を良くし、ハワイ大学での解剖実習の機会をいただけたかもしれません。
貴重な体験をされたのですね。今後は、セミナーなどの活動を再開するご予定はありますか。
ありません。なぜならば、その後私と同じハワイ大学で解剖する団体が出てきたので、料金的には私より高いですがお金を出せば誰でも受けることができるようになったからです。それと開催期間が短くなりしっかり見ることができなくなったからです。
では、最後にこのコロナ禍の中、どのような将来への抱負をお持ちですか。
これまでの人生を振り返ると、すべてが偶然の連続で、計画したわけではなく、何かに導かれるようにしてここまできたように感じるんです。トレーナーになったのも、たまたま時流に乗れたというだけですし、解剖実習もハワイ大学構内で配布しているフリーペーパーから偶然見つけたものでした。
その時その時に必要な出会いが偶然巡ってきて、今ここに立っているという思いが年々強くなっています。
ですから、私としては患者さん一人ひとりにこの経験を活かしながら、これまで以上に一生懸命仕事に励むことで、また偶然の出会いが巡ってくるような気がします。それが何かは私にもわかりませんが、その時に素直に向き合える気持ちを維持できればと願っています。
(取材・文/神谷真理子)
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