ニューヨークでファッション業界に携わって14年、これからはその経験をもとに新しいステージに挑戦したい。
ファッションデザイナー山下須美恵さん
2022.01.26
マイケル・コースコレクションのシニアデザイナーとして活躍してきた山下須美恵さん。競争が激しい世界であり、有名ブランドのファッションデザイナーになれる人はごくわずかです。そのファッション・デザイナー、マイケル・コースの直属の部署で、どのようにしてトップの信頼を獲得し続けてきたのか、話を伺いました。
山下さんは、どんな子供でしたか。
好き嫌いがはっきりしていましたね。服に関しては特にこだわりが強く、毎日自分で選んだ服を着ていました。
お母さんからすると娘に着せたい服もあったのではないですか。
小学校の入学式で、周りの子がワンピースを着ている中、母にグリーンのパンツスーツを着せられて嫌だった記憶があります(笑)。今思い返せば、かっこよかったなと思うんですけどね。初めて母と好みが一致して買ってもらったシンプルな黒のワンピースは、とても思い出深い服です。
日本は欧米に比べて個性を出しにくい環境かと思いますが、他の子と違うことに対して抵抗感はありましたか。
みんなと同じが嫌だと思っていたわけではないですが、「自分は自分」というマインドが子供ながらにあったんですよね。小学3年生の時に、父の仕事の都合でワシントンへ移住しましたから、ちょうど良かったのかもしれません。
外国へ移住して、最初の壁は言語だと思いますがどのようにして乗り越えましたか。
日本語学校へは行かずアメリカの学校へ通ったのですが、最初は物を使ったり絵を描いたりしてコミュニケーションを取っていました。表現する手段はたくさんあると気づきました。
ファッションデザイナーに興味を持ったきっかけはなんですか。
小学5年生の時に読んだ漫画の「天使なんかじゃない」がきっかけで、登場する女の子たちのファッションがとてもお洒落なんです。著者の矢沢あいさんは、漫画家以外だったらファッションデザイナーに興味があったと言っていて、ファッションデザイナーという仕事があることを知りました。
服飾業界にもさまざまな仕事がありますが、なぜデザイナーを目指したのですか。
私は絵を描くことも好きでしたから、好きな絵を真似て描いていて「こういう服を自分でも描けたらいいな」と漫画家への憧れもあったんです。絵を描くことと服が好きでしたので、それからはファッションデザイナーになることしか考えていませんでした。
夢が決まってからは、どのような勉強をされたのですか。
絵を描いたり漫画を読んだり自分の好きなことをやっていたので、ファッションデザイナーになるための勉強はしていませんでしたね(笑)。でも、そういったものからアートの見方や感性などは磨かれていったのではないかと思います。それに、ファッションだけを学ぶのは嫌で、高校卒業後もファッションの専門学校ではなく、カリフォルニアのアートスクールへ進学しました。
なぜファッションだけではなく、アート全般を学べる学校へ進学したのですか。
服だけでなく、アートやグラッフィックデザイン、アーキテクチャーなど、いろいろな分野でクリエイターを目指している人たちと知り合いたかったんです。
実際に進学してどうでしたか。
本格的にファッションの勉強をし始めたのは2年生からです。1年目はドローイングなどアートの基本的なことを学ぶカリキュラムが多く、ひたすら人物像を描かされていました。アート以外には、本を読んで論文を書く授業もあったのですが、読書や文章を書くことは苦手で…。自分のしたい勉強よりもそういったことに時間を費やさなければならなかったことに葛藤はありました。
自分が思っていた大学生活とギャップはありましたか。
私は、縫い物もできないくらいまっさらな状態で入学したのですが、逆にそれがよかったかなと思っています。周りは、高校生の時からロンドンやパリに留学して学んできた子が多く、その子たちにとってベーシックな授業はとてもつまらなさそうでした。私はみんなが知っていて当たり前なことも知らなかったので、とにかく授業についていくのも必死でしたし毎日が新鮮だったんです。「できないけど、頑張っている子」と先生からは見られていました(笑)。
スタート時点では多少遅れをとっていても、その後真剣に学んだ人と学んでない人とでは大きな差が出るのではないですか。
やってきたことは裏切らないと思ったことがあります。大学4年生の時に、CFDA主催のデザインコンテストがあったので応募してみたんですが、トップ10に入ることができたんです。私が通っていたアートスクールでは初めての賞だったので、先生たちもびっくりしていました。
CFDAとは何ですか。
カウンシル・オブ・ファッション・デザイナー・オブ・アメリカの略で、アメリカのファッションデザイナーを支援している団体です。ファッションデザイナーを表彰するためのコンテストが毎年1回開催されています。
その際のデザインがマイケル・コースの目にとまり、入社されたんですか。
いいえ、マイケル・コースに入社する前は、ナルシソロドリゲスでデザイナーとして4年間働いていました。ちょうどリーマンショックの頃ですが、働いていた会社も影響を受け、私を含め多くのデザイナーが解雇されてしまいました。
私は以前、人材紹介の営業をしていて、その仕事をしていた頃の有効求人倍率は1.6倍くらいでしたから、リーマンショック後の就職の厳しさは想像するのが難しいです。
解雇されてから約1年、仕事は見つかりませんでした。1年ほど経った頃、CFDAのコンテストの際、お世話になった先生に仕事がないか相談をしてみたんです。すると、CFDAに相談に行ってみれば、と。その数ヶ月後、マイケル・コースの求人が出たと連絡があったんです。応募しますと即答しました。
デザインコンテストの努力の結果がここで現れたのですか。
そうですね。あの時、コンテストを受けていなかったらCFDAとつながれることもなかったですし、マイケル・コースが求人を出している情報すら知らないままだったと思います。
面接はどのようなものでしたか。
4回面接があったのですが、1回目の面接官がクリエイティブディレクターでした。あとから知ることになるんですが、その方はマイケル・コースの夫(注:マイケル・コースは男性)だったんです。それから1ヶ月ほど音沙汰がなかったので、違う求人を探そうかなと思っていた矢先に、1次面接通過の連絡がきました。2回目の面接が終わったあと、5体から10体ほど服をデザインしてきてと課題がありました。
山下さんに興味を持ったからこそ、出された課題ですね。
私もそう思いました(笑)。3次面接は1週間後だったのですが、まさかの顎関節症になってしまったんです(笑)。アメリカは日本と違って医療費が高いので、病院へは行かず面接を迎えたのですが、不思議なことに面接が終わったら自然と口が開くようになっていました。自分では気づかないところで、緊張感を感じていたのかもしれないです(笑)。
体は正直ですね(笑)。
そうですね、3次面接も通って、やっとマイケル・コースと会うことができました。
マイケル・コースはどのようなところを見て判断していたと思いますか。
印象に残っている質問がいくつかあるのですが、好きなデザイナーやモデル、ドレスアップできるなら誰がいいか、と聞かれました。好きなデザイナーはベルギー人のマルタン・マルジェラや日本人の山本耀司、川久保玲と答えたのですが、マイケル・コースのイメージとは180度違うようなデザイナーです。好きなモデルはフライヤ・ベハで、普段はボーイッシュな格好が多いモデルですが、ランウェイでフェミニンなドレスを着るとスイートになりすぎず、かっこいいんです。
媚びのない回答ですね。
面接が終わった後に、もう少し媚びを売った方がよかったかなと思いました(笑)。でもマイケル・コースで働きたいから、服も靴も好みも寄せていくのはナンセンスだと思っていましたし、新しい着こなしや発想・感覚は、他ブランドやデザイナーからインスピレーションを受けることもあります。
山下さん以外にも、応募していた人がいたと思いますが、受かった理由はどこにあると思いますか。
1名募集の求人で、マイケル・コースと面接した人は私を含めて3人いたのですが、その中で一番経験がなく最後の候補者だったと聞きました。あとは、私はSNSをやっていないので、面接以外での情報が得られなかったと聞きました。
何でも調べられてしまう世の中で、情報がまったく出てこないとなると逆に興味が湧いてきますよね。
アメリカでは「自分のことが知りたかったら〇〇に聞いてください」と履歴書に書くのですが、ファッション業界は小さく、コネクションがないと厳しい世界なんです。その世界で、コネクションもほぼなければSNSもやっていなかったので気になったのかな、と。マイケル・コースはお話好きの性格ですが、好きなデザイナーや服の好みなど、共通の話題で盛り上がったことも大きいと思います。共通の話題ができるのは、仕事に限らず大事なことですよね。
1年半仕事を探されて、ファッションデザイナーであれば誰でも憧れるようなブランドで働き始めた時のお気持ちはいかがでしたか。
正直なところ、入社して1週間で自分には合わないと思いました。
何が合わないと思ったのですか。
最初に入社した会社ではそれまで勉強してきたことが活かされ、素直にとけ込めた職場だったのが、マイケル・コースに入ってからはなに一つ仕事ができなかったんです。使うパソコンが、MacbookからWindowsに変わったり、デザインするためのツールもイラストレーターからフォトショップに変わったりと、ステップアップだと思った転職が振り出しに戻ったような感覚でした。
思い描いていた仕事ができるようになったのはいつ頃からですか。
入社して4年目に初めてイタリアに行かせてもらえた時です。マイケル・コースはニューヨークにサンプルルームがないので、年4回イタリアに遠征して服を作っているんですが、先輩たちがイタリアに行っている間は、新人がニューヨークに残って、電話やメールの対応など事務的な仕事をするんです。自分の役割がなかなか見えない3年間でした。
サンプルルームがオフィスにないとなると、服が作られていく過程が見えないということですか。
服ができあがるまでの過程が10あるとしたら、3までの工程はニューヨーク、4以降はイタリアという感じでした。次のシーズンに向けてセレクトしたデザインのスペックをイタリアに引き継いだあとは、ファッションショーの2週間前まで自分がデザインした服に携わることはありませんでした。
初めて4から10の工程を見ることができた時は、いかがでしたか。
今まで自分がやってきたことの意味が初めてわかりました。前職の経験もここにきて初めて活かされたと思います。ヘレン・ケラーが「water」と叫ぶ映画の有名なシーンがありますが、まさにそれでした。やっと点と点がつながった、と。
一般的には雑用と言われるような仕事は、やっている時にはわからなくても意味があるということですね。
1から3までの工程を知っていることで、イタリアでの仕事がよりスムーズに理解できたと思います。
イタリアでの仕事は具体的にどんな仕事をされたのですか。
一つひとつの商品に対して、色やボタン、どのデザインをオーダーしていくかをマイケル・コースの指示を仰ぎながらスケッチしていく作業がメインの仕事でした。それがコレクションのバイブルになり、カットスケッチしたものをイタリアのメーカーに発注し、サンプル商品ができあがります。
マイケル・コースの思い描いているデザインをどのように表現していくのですか。
マイケル・コースやパートナーのランスは次のコレクションのベースとなる服を大量に集め、それをもとにどういうものを作りたいかをデザイナーに伝えるんです。この服のこういうところが良い、とか、ここは変えてほしい、など。デザイナーは、それをもとに350から400のデザインを作ります。その中から選んだ約100のデザインをイタリアに引き継ぎ、最終的には85のデザインが残ればいいものが作れた、という評価でした。毎回スケッチをしたものは、ランスに見せるのですが、多い時は一つのデザインで6回ほど描きなおしていました。
400から85まで絞られていくんですね。自分がデザインした商品がランウェイで披露された時のお気持ちはいかがでしたか。
正直、ファッションショー自体にそこまで興味はないんです。服を作るまでの過程とか、イマジネーションがある方が圧倒的に楽しいですね。完成した商品はすでに自分の中では終わった仕事なんです。もちろん、マイケル・コースの服を着てくれている方を見たら嬉しいなとは思いますよ。
ファッションショーで記憶に残っている出来事はありますか。
あるモデルがアレルギー反応を起こし、目が腫れて今にも倒れてしまいそうな事件がありました。もう少しでショーが始まるタイミングで、モデルは自分の位置にスタンバイし始めていた時です。そのモデルはサングラスをしていて本人は問題ないと言っていましたが、モデルを変えることに決めました。ファッションショーで着るモデル用に採寸していますから、背丈や体型・肩幅、靴のサイズなど同じくらいのモデルを探すことに必死でした。スタイリストと3人で解決法を考え、マイケル・コースとランスに報告しました。大事なショーの前に、パニックを起こさせたくなかったんです。私たちが考えた策をマイケル・コースは採用してくれました。すべてのモデルを把握していなければできなかったことですし、自信にもつながったショーです。
貴重な裏方の話ですね(笑)。私たちが目にする商品は、どのような経緯で市場に出てくるのですか。
ファッションショーが終わったら、バイヤーからオーダーが入り、それをもとにセールスの人たちがどの商品を売り出していくかを決めます。売り出していく商品が決まったら、プロダクションフィッテイングで一般に売られている服のサイズを作っていくんです。
プロダクション・フィッテイングとは何ですか。
一般的なサイズの服を作るためのフィッテイングです。ファッションショーはモデルサイズで作っていますから、とても商品化できるサイズではありません(笑)。
そのフェーズはデザイナーも関与するんですか。
プロダクションチームに任せるとデザインもコンセプトも変わってしまうことがあります。長さや形の調整を行うにしても、調整する加減がわかっていないとデザインやコンセプトにズレが生じてしまうんです。プロダクションフィッテイングにも関与するとなると、さらにイタリア出張が4回プラスされるんですが、私と歳も入社時期も近い同僚と一緒に仕事ができて楽しかったです。それまでは上司から指示を受けて動いていたのが、若手だけで仕事ができる喜びがありました。
3ヶ月かけて1シーズンのファッションを作りあげて、それが年に4回あるとなるとリフレッシュの時間はなさそうですね。
がむしゃらに働いてました。入社してすぐ感じた違和感も忘れるくらいに(笑)。でも、イタリアは8月丸々バカンスで休暇をとるので、その時だけ少し休めたり、イタリア出張の前後でヨーロッパに旅行に行ったりとなかなかできないような経験もさせてもらっていました。
ファッション雑誌の「VOGUE」に掲題された記事も見ました。
いくつかの有名ブランドで、トップデザイナーの後ろで活躍している、アシスタントデザイナーやセールスやパターンメーカーの人たちを特集する企画があり、それに選んでいただきました。
マイケル・コースで掲載されたデザイナーは山下さんのみですか。
はい。ありがたいことに、マイケル・コースに選んでもらいました。選んでくれた理由はわかりませんが、出しても恥ずかしくないと思ってもらえていたと信じています(笑)。
今後の目標をお聞かせください。
小学5年生の時にファッションデザイナーを夢見て、26年間夢に向かって突っ走ってきましたが、1ヶ月ほど前に10年間勤めたマイケル・コースを退職し、終止符を打ちました。しばらくは、映画館に行って映画を見るとか、新しい本を買って読むとか、そういうことに時間を使って、仕事以外の話ができる人間になりたいと思っています。あとは、生活の拠点を日本に移そうかな、と。
日本から離れていたからこそ、良さがわかるものですか。
日本の文化は素晴らしいですよね、食べ物も美味しいですし。長年ファッション業界に携わってきましたが、最近は着物に興味を持つようになりました。着物を着る生活にも憧れますし、着物の良さを伝えていけたらなと漠然と考えています。
一つのことを極め、第一線で活躍されてきた方の話を聞くのはとてもワクワクしました。
(取材・文/髙久美優)