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紺碧の将
Interview Blog vol.130

誰かの心を癒せる、そんな書を書きたい。

書家小筆凰外さん

2022.05.10

 

京都の鞍馬で生まれ育った小筆さん。5歳から書を始め、個人の活動だけでなく、墨心書藝院の主宰者として幅広く活躍しています。一度は書から離れたものの、やはり自分にできることは書で人の心を癒すことだ、とさまざまな経験を通して気付かされたそうです。どのような経験が、小筆さんをまた書の世界に導いたのか、お話しを伺いました。

習い事が開いてくれた人生の扉

生まれも育ちも鞍馬ですか。

そうですよ。近くには鞍馬寺があり自然もたくさんあって、観光時期になるとたくさんの人が訪れます。

鞍馬寺は、源義経の修業場所だったり、パワースポットとしても有名ですよね。どのような子供時代を過ごしたのですか。

周辺には商業施設はもちろんありませんから、川や山で遊んでました。あとは田舎特有かもしれませんが、年齢関係なく近所の子供がみんな仲良かったんです。私には3つ上の姉がいるのですが、とにかく姉がやることは真似したかったですね。

自然の中で遊んだりと活発な印象を受けますが、書に興味を持ったのはいつ頃ですか。

5歳の時に鞍馬寺の書道教室に通い始めました。興味があったというよりは、姉が先に始めていたからという理由です。私の父は宮大工で、母もお寺で働いていましたから、何かと鞍馬寺に縁があったんです。それに昔は、習い事と言えば、算盤、書道というような風潮がありましたからね。周りの友達も同じ書道教室に通っていました。

友達と通える習い事は、楽しかったですか。

毎週日曜日が書道教室の日だったのですが、正直嫌で仕方がありませんでした。一人目の師匠にあたる安井吾心師がとても厳しかったんです。足が痺れていようが正座ですし、墨の濃さが足りなければ怒られましたし、いつも泣いていたことを覚えています。いつか辞めようと思いながら通っていましたね(笑)。

子供だから甘やかすというようなことはしなかったのですね。

清書を先生に見せても、「こんなん駄目」と言われるだけで、どこが駄目なのかは教えてもらえませんでした。手取り足取り教えてくれる今の教育とは違いますよね。やるべきことは自分で探させる、吸収すべきことは自分で吸収させる、という先生でした。だからこそ、先生の筆の動きを食い入るように観察していました。

ただ厳しいだけでは続かなかったと思いますが、いつか辞めようと思いながら続いた理由は何ですか。

年に一度、クリスマスの時期に先生からケーキをもらえたんです。その頃はケーキ屋なんて周りになかったですし、いつ最後に食べたかもわからないくらい特別な物でしたから。普段は鞭ですが、年に1回の飴のために頑張っていました。

小学校入学という一つの区切りがあったと思いますが、変わらず続けられたのですか。

はい。小学生になってからは、剣道とピアノも習い始めました。

文武両道の習い事をしていたのですね。

剣道は、左京区の警察官が小学校に来て教えてくれたんです。この地域は子供も少なく、選べるほどのクラブもありませんでしたからね。昔は土曜日の午前中まで学校がありましたからそのまま午後は剣道の時間で、ピアノは週2回習っていました。週7日フル活動でしたよ。

習い事での一番の思い出はなんですか。

毎年、義経の日と言われる9月15日に鞍馬寺の本殿の前でトーナメント戦をするのですが、決戦で同級生の男子と戦い優勝したことがあります。ちょっとした自慢ですが(笑)。負けず嫌いなんですよ。怒られると、絶対見返してやる、と思っていました。

そう思えるか思えないかが、後々大きな差を生むのでしょうか。習い事が今に活かされていると思うことはありますか。

剣道の経験は特に今の自分に活かされています。書を書くときは無心になって、その1枚に全エネルギーを注ぐわけですが、剣道も集中力がないと相手に隙を与えてしまいますよね。書道と同じく礼儀を重んじ、集中力が大事なスポーツですから、剣道で更に鍛えられたと思います。私が小学6年生の時は、低学年の稽古の的になることもありますから、辛抱強くもなれたのかな、と。

ピアノを習っていてよかったと思うことはありますか。

ピアノは、唯一椅子に座ることができるという点では嬉しかった記憶があります。書道でもリズム感は大切ですから、音楽に触れていて良かったと思っています。ただ、週2日のうち1日は、自分で作曲するという課題があり、それだけはどうも苦手でした(笑)。

スポーツ、音楽、芸術関係なく、通ずる部分があるのですね。

剣道とピアノは中学に入学する際に辞めてしまったのですが、書道だけは続けていました。最初は嫌々やっていた書道も、気づいたら字を書くことが好きになっていたんですよね。中学生の時はバレーボール部にも所属していて、試合がある時は部活動を優先していましたが、変わらず日曜日は書道教室に通っていました。

厳しい印象の師匠ですが、部活動を優先することへの理解があったのですね。

実は、私が小学2年生の時に安井師は亡くなられて、それからは安井師の後を継いだ田中心外師から学んでいました。田中師は安井師の弟子で、墨を磨るお手伝いに教室に来ていた人だったのですが、ずっと「このおじさんは誰だろう」と思っていたんです(笑)。大阪の高校で英語の教師をしながら安井師に学んでいたところ、安井師に「鞍馬に来なさい」と言われ後継ぎをしたと聞きました。

田中師匠はどのような方でしたか。

安井師ほどではなかったですが、田中師も厳しかったですね。田中師匠は、型にはまった書ではなく、芸術としての書のスキルを磨きたいという人で、私にもアートの考え方や空間、性質を活かす書を教えてくれた人です。最初は、アートとか空間とか言われても、何を言っているのか理解できませんでしたけどね(笑)。海外でも活躍されていて、フランスで開催されたG7で日本の書道家として書のパフォーマンスをしたことをきっかけに、活動拠点をフランスに移され、その頃は帰国の際にしか直接指導は受けられませんでした。私も学業やアルバイト、遊びに忙しく、書を怠けていた時期でした。

高校生は、習い事よりも遊びたい時期ですよね。

そうですね。師匠が日本に帰ってくる際には、一夜漬けで書を書いてました(笑)。「たくさん時間があって、これだけ?」とよく言われていましたね。

高校卒業後は、本格的に書家の道に進んだのですか。

いいえ、卒業後は大手化粧品会社の接客業に就きました。書は続けていましたが、書家になるつもりはまったくなかったのです。

書の道へいざなわれる

書家になるきっかけは何だったのですか。

いい話ではないのですが、24歳の時に婚約者を不慮の事故で亡くしてしまったことが大きなきっかけです。当時、京都高島屋の化粧品売場で接客業をしていて、一応書も続けてはいたのですが、結婚を機に書をやめると田中師匠に伝えていたんです。事故により婚約者は半年間、意識が戻らなかったため、私も付きっきりで見守っていました。職場の理解があり、一時期は仕事を休ませてもらっていましたが、自分がいなくても業務が回っていることに気づいたんです。正直気力もありませんでしたが、自分は何を生き場所とすればいいか、真剣に考えさせられました。

どのようにして立ち直ったのですか。

友達と会うとか、本を読むとか、音楽を聞くとか、あとは何よりも時間が解決してくれました。自分が苦しい時にまわりの人の人間性がわかると言いますが、本当にそうだなと思いました。仲の良かった友達が、意外と軽い反応だったり、あまり親しくなかった人が、すごく励ましてくれたり。乗り越える壁は大きかったですが、人の温かさに助けられました。それから、25歳の時に田中師匠の元へ行き、もう一度書を始めたいとお願いしました。

やはり字を書くことが好きだったのですか。

私らしいことって何だろうと考えた時に、字を書くだと気づきました。誰かが書いた本を読んだり、誰かが作った音楽を聞くことで元気を与えてもらったように、私の書で誰かが癒されたり、生きるヒントになってくれればいいなと思ったんです。前を向いて人生をやり直すことができたのは、書のおかげです。

再び書を始めて、以前の自分と変わったことはありますか。

自分がこうしたい、というよりも、何かやらなければいけない、といった使命感のようなものが強くなりました。それから田中師匠の元で15年程学びましたが、自分で考えることをさせてくれた先生でした。周りの生徒は、先生からお手本をもらえるのに自分だけ貰えないことがあって、「もしかしたら嫌われてる?」と思うことがあったのですが「お手本を渡したら、僕の作り出した枠から出られないでしょ。自分で考えて書きなさい」と言われ、ほっとしたことを覚えています。

小筆さんが書を通して表現したいと思ったことはなんですか。

さまざまな文字が出来上がった経緯や漢字が持つエネルギーを最大限表現することです。例えば、「生きる」という文字をどれだけ線が生きているように書くか。線には自分の感情が反映され、見た人全員でなくとも誰かにプラスの感情を与えられればいいな、と。禅語も好きで、よく禅の言葉を書いたりもします。

今は師匠の元ではやられていないのですか。

実は、15年程前に亡くなられてしまいました。今は、田中師匠が残して下さった墨心書藝院を引き継ぎ、個人での活動の他に書道教室を運営しています。師匠はフランスとフィンランドにも生徒がいましたから、その活動も引き継ぎ、年に1回海外の方にも書を教えています。

墨心書藝院とはどのような活動をしているのですか。

現在は京都市内に6ヶ所、海外に3ヶ所の書道塾を開講し、基礎からアートまで書に親しみたい方に伝授しています。その集大成として鞍馬山の麓で毎年花供養の時期に書道展を開催しています。

師匠には他にも弟子と呼ばれる人がいたと思いますが、なぜ小筆さんが引き継いだのですか。

遺言です。師匠は鞍馬寺と私の母に、いずれ私に継がせたいと生前から話していたそうです。母は、鞍馬寺で陶芸、水墨、書道を習っていましたから、師匠と面識があったのです。私は、師匠と母がそのような話をしていることはまったく知りませんでした(笑)。

師匠がやってきたことを引き継ぐプレッシャーは大きかったのではないですか。

先生の名前をここで終わらせてはいけないというプレッシャーは大きかったです。経営も人に教えたこともありませんから、すべて手探り状態でした。「出る杭は打たれる」という諺がありますが、弟子の中で私が一番若かったということもあり、私が引き継ぐことに対して、いい顔をする人はほとんどいませんでした。でもそこで活きたことは、子供の頃からの反骨精神です。大人になっても根っこの性格は変わっていなかったみたいですね(笑)。

師が亡くなられてからは、どのように学んできましたか。

日常すべてが学びの対象です。いろいろなデザインや作品を見たり新聞を読んでいいなと思った言葉を切り抜いて、自分だけのノートに溜めています。そのノートを見返せば必ずヒントがありますね。あとは、料理の盛り付けとかも参考にします。視覚で楽しませることも書に通ずるものですからね。

人に教える立場になって、何を意識していましたか。

教えることは教えられることです。啐啄同時という禅語があります。雛鳥が殻の中からつつき、親鳥はそれに気づいて外から殻をつつく、そのタイミングが合って初めて、雛鳥は殻から出て親鳥と出会うことができます。私には9歳から101歳の生徒がいますが、「あなたは何が知りたいですか?」「私はこれを教えたいです」という意思疎通をきちんと取るようにしています。シニアチームの生徒から見れば、孫のような私に「先生」と呼べることがすごいと思っています。すべての生徒に敬意をもって一人ひとりとコミュニケーションを取ることを大事にしていますね。これは師弟の関係に限らず、家族、友達、恋人、色々な関係に通ずることだと思います。

生徒は何名くらいいるんですか。

日本、フランス、フィンランド含めて80名ほどです。生徒は私の財産ですよ。

地域によっても違いますが、学校では1クラス30〜35人と考えると、約2クラスの生徒を受け持っているということですね。フランス、フィンランドの生徒はそれぞれどのような特徴がありますか。

フランスでは、アーティスト、武道家の2つのグループがあります。生徒で漢字が読める人、その意味までわかる人は少ないですから、基礎をしっかり学んだ後はアート感覚で教える方が相手も理解しやすいかなと思っています。先程も例でお話しした通り、「生」という字を見て、「この字、生きているように見えるね」と言うのは海外の方です。わからないからこそ、そのまま感じとることができるんだと思います。ただ、字には崩し方のルールもありますから、基本はきちんと伝えています。もう一つの武道グループは、フランスは武道が盛んな国ですから、毎年開催されるサマースクールに世界中から武道をやっている人が集まってくるんです。その中で、書も学びたいという人が生徒としてきてくれます。武道と書は、竹刀と筆、動と静の違いがありますが、精神統一という根本部分は同じですよね。線を引くときの呼吸や意識の集中など、私は子供の頃に剣道を習っていましたから、その経験が活きています。

教え方のアプローチもさまざまなんですね。

フィンランドは禅が盛んな国で、ヘルシンキ市には市が運営する禅センターがあるほどです。日本人の心に通じている人を相手にしているという点では、日本人も海外の人もあまり変わらないと思います。

日本の伝統文化に詳しいのですね。

そうですね。彼らは好奇心旺盛ですよ。夜の食事は大体3時間くらい時間をかけ、その日あった出来事をみんなで話すんです。それだけ話すことがあるということは、日常の中にたくさんアンテナをはりめぐらせてそれに対する自分の意見をきちんと話しているからですよね。日本人は言わないことが美徳という考えもありますが、海外の人からしたらまったく理解できないそうです。私も、「先生はどうしたいの?」と聞かれることが多々ありました(笑)。

日本ではテレビを見ながらご飯を食べて、早い家庭では数十分で食事の時間が終わってしまうところもありますよね。友達や家族と話しながらゆっくり食事をすることはとても良い風習だと思います。

よくそこまで話すことがあるなと感心しますが、そうしてその人を理解し、自分との違いを認めながらその人間を愛することは、大切なことだと思います。

自分の経験したことを共有したいという思いが強いのですね。他に、日本と海外の違いを感じた出来事はありますか。

以前、フランスの国営ラジオから取材をしたいと話をもらい、受けたことがあります。田中師匠を偲ぶ会がフランスで開催され、オープニングで書のパフォーマンスをしたのですが、それを見たラジオ局の人が「あなたから感情が溢れ出ていて、内面が透けて見える。どういう思いで感情をさらけ出しているのか。それを黒と白の世界でどう表現するのか。空間の活かし方は?」とすごく興味を持ってくれました。日本は受賞することにとらわれがちですが、私は見た人に何かプラスのものを感じとってもらいたいという思いがありますから、そのように捉えてもらえたことはすごく嬉しかったです。

相手にそれが伝わったのは、なぜだと思いますか。

作品を書くのに、2つのパターンがあると思っています。同じものを何枚も書きその中の1枚を選ぶ人、一つの作品に対して120%の力が出せると思った時に書く人。私は後者です。書く前はデッサンをするのですが、この字をどう変化させていくのか、まずは紙に鉛筆で書いてみるんです。例えば「大」という文字を小さく書くのは、私は漢字に対して失礼だと思っていますから、どのような象形文字から作られたのかという経緯や漢字そのものの意味も考えます。墨の濃さもシュミレーションし、ここぞという時に書きますが、その1枚が上手くいかなかったらその日はもう書きません。人間の集中力は続かないと思っていますから、2枚目、3枚目はより納得がいかないことを知っています。

全エネルギーが注がれているから、相手に伝わるんですね。

どう感じるかは個人の自由ですし、全員が良いと思う作品はありませんから、思い通りに見てもらったらいいと思っています。よく書の見方がわからないという話を聞きますが、書の横に意味も書いてありますし、自分の価値観に合うか合わないかで見てみたらいいですよ、と伝えたいです。

多方面でご活躍ですが、今後の目標を教えてください。

芸術としての書道の地位を上げていきたいです。ITの時代になって、書でもVRが使われたりとか、コロナ禍などの不景気によって、伝統文化がどんどん廃れていってしまうのではないかと危惧しています。生活が大変な時に書はやりませんよね。ある程度余裕がないとできないことだと思いますが、世の中の変換期だからこそ書道の世界も変わっていく部分は変わっていかないといけません。「書道」は「道」という文字があるので、日本文化が大切にしている精神の部分が大きいですが、「書」になると色々な楽しみ方があっていいのかなと思います。あとは、私の後を継いでくれる生徒がいたら嬉しいですね。師匠から引き継いだものをまた次の代に引き継いでいけたら、師匠孝行になれるのではないかと思っています。

最後に好きな禅語の言葉を一つ教えてください。

「一福延寿」、日々の小さなことにも感謝を持つことで大きな幸せにつながっていくという意味です。嫌なことや辛いこともたくさんありましたが、そのたびに、いろいろな人に助けてもらって今の自分がいます。アナログですが、直接人と会うことがチャンスを得る一番の鍵だと思っています。3人の死をもって書の世界に生かされていることを忘れず、日々丁寧に生きていきたいです。

 

貴重なお話をありがとうございました。すべての経験を活かすか活かさないかは、自分の心の持ちようだと思いました。

(取材・文/髙久美優)

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