人との縁によって、仕事の可能性が拡がった
フリーカメラマン谷 文彦さん
2022.10.01
今までアパレル業、飲食業、現在はフリーのカメラマンとして、幅広い業界に挑戦し続けている谷さん。どのようにして、さまざまな仕事の縁ができたのかお話を伺いました。
流れに身を任せて
どんな子供でしたか。
自分の世界に入ることが多かったですね。庭の石をひっくり返して虫を獲ってきたり、その虫になりきってどんな世界なのかと想像してみたり、あとは夕焼けを見ることが大好きでした。私が通っていた幼稚園は週2日の登園でしたから、家にいる時間が長く、自然と一人で楽しむ術を身につけていたのかもしれません。いろいろなものに対しての妄想力はすごかったと思います(笑)。
遊び方を見つける天才ですね。その頃から、将来なりたいものはあったのですか。
いいえ、特にありませんでしたよ。勉強が苦手で劣等感もあった中で、唯一興味があったものは酪農ですね。
なぜ酪農に興味があったのですか。
祖父が岐阜大学の農学部の教授をしていて、お盆休みなどに大学へ遊びに行くと、搾りたての牛乳を飲ませてくれたり牛に触らせてもらえたんです。僕はもともと動物が好きですし、広い農場でゆったりと仕事がしたいと思って農業高校に入学しました。
おじいさんから貴重な経験をさせてもらえたのですね。
ただ、体質的に牛飼いには向いていないことがわかったのです。高校内の牛舎で牛のお世話をするプロジェクトに参加したのですが、鼻水と咳と目の痒みなど、アレルギー症状に悩まされ続け、半年ほどでそのプロジェクトに参加できなくなりました。
もともと動物がお好きとのことですから、辛かったのではないですか。
当時は、動物アレルギーという言葉自体なかったものですから、病院に行っても「体質的に合わない」と言われ、腑に落ちなかったですね。プロジェクトは毎日休みなく早朝から活動していましたから、辞めてからは普通の高校生が楽しむような青春時代を過ごすことができ、それはそれでよかったことだと思っています。
高校卒業後はどうされたのですか。
神戸にある大学に進学しましたが2年で中退し、その後は旅行の専門学校に通いました。子供の頃からいろいろな風景を見ながら旅行をすることが好きだったんです。幼い頃に実家の大阪から鶴岡市にある親戚の家まで一人で旅行をしたことがあります。今のように、調べればすぐに電車の時刻や目的地までの行き方がわかる時代ではありませんでしたが、地図を見ながら行く途中や行った先でどんなことがあるんだろう、と妄想しながら計画を立てることが好きでした。
すごい行動力ですね。卒業後は旅行会社に就職したのですか。
いいえ、神戸三ノ宮にあるブティックで働き始めました。学生の頃は何になりたいかわからず悩んだこともありましたが、雇われ店長として10年間、独立して21年間働くことになるんです。
アパレル業界での31年間
どういったご縁があったのですか。
専門学生時代、趣味のスキーのための小遣い稼ぎで始めたアルバイトが、ブティックの接客でした。旅行会社へも就職口があったのですが、いつの間にかブティックでの仕事が楽しくなっていたんですよね。最初は「たかがアルバイト」という気持ちだったものが、ある時、ただ自分の時間を切り売りしているだけの働き方はつまらないと思ったんです。お客さんがいない時はレジの椅子に座りながら、漫画を読んでいましたからね(笑)。このままでは人として腐ってしまうと危機感を感じ、きちんと接客業をしてみようと思いました。
アルバイトならなおさら楽して稼ぎたいと思いがちだと思いますが、途中で心持ちの変化があったのですね。
それからはアルバイトの時間がすごく短く感じました。お客さんに対しての接し方が変わり常連のお客さんが増えたことによって、僕自身も働くことが楽しくなっていったんですよね。また、アルバイト店長という立場に変わってからは靴下とネクタイの仕入れを任せて貰い、お客さんがどういったものを求めているのかなど注意して観察するようになりました。
ものの見方が変わると、日常にはいろいろな変化があるんですね。それから31年間も続けるなんて、思ってもいなかったのではないですか。
そうですね。4社経験しましたが、そのうちの3社は雇われ店長として縁があった人のお店で働かせてもらい、20代後半に独立して自分のお店を持つことができました。
雇われ店長の頃から、裁量権はある程度あったのですか。
はい。仕入れから店舗作りまで、ほぼすべての業務を経験させてもらいました。
どのようなコンセプトのお店作りをしていたのですか。
お客さんがふと入ってみたいと思えるような、また、流行りものよりも良いと思ったものを置こうと思いました。あとは、在庫管理で辟易した経験があり、ラックに大量の服をかけるのではなく、一つひとつの服の見せ方も工夫しました。お店が服をどのように扱っているかは、レイアウトでわかると思うんです。メンズの場合、店内の在庫が3ヶ月で1回転すればいいと言われていたところ、1ヶ月で1.5回転のペースで在庫が売れていきました。
根強いファンがいたということですね。
当時、メンズは紺色のブレザーが流行っていましたから、当然メーカーからは取り扱ってほしいと依頼があったのですが、数点しか取扱いませんでした。楽して売れてしまうことが怖かったんです。お客さんに、本当にいいものを伝える努力をしなくなりますから。目当てのものを探しに来ているお客さんに、違うものを勧めることは難しいかもしれませんが、苦労して接客したお客さんは絶対常連になってくれると信じていました。僕はよく、付き合いの長いメーカーの人から、「ジャケットと一緒に人参も売るやろ?」と冗談で言われていましたよ(笑)。
何でも売ってしまったということですか(笑)。
勉強ができないことがコンプレックスで、それを隠そうと賢いふりをして生きてきたんです。でも、そんなことをしても無駄だと気づきました。僕は僕の良さを活かして、お客さんと接していこう、と。たくさんのお客さんと話すことができたおかげで、自信がつきました。
2つの大震災での経験が、人生を大きく変えた
途中、挫折しそうになったことはありますか。
独立して3年目の時に起こった阪神淡路大震災ですね。幸い僕のお店は被害が少なかったのですが、道路の反対側の建物はすべて崩壊していました。
震災を経験されたのですか。
はい。スタッフの安否確認後、お店の状況を確認しに自転車で向かっていたのですが、瓦礫だらけの土地や遺体が包まれた毛布、親族を探して名前を呼びながら歩いている人など、まさに地獄絵図のような状況でした。
その状況から立ち直したということですよね。
震災が起こった同年の2月2日にお店を再開しました。正直、閉店しようと思っていたんです。震災後、片付けをするためにお店に行くと、道行く人たちがみんな俯いて歩いていました。当然ですよね。その姿を見て、お店を再開しても「いらっしゃいませ」とは声をかけられないと思いましたよ。心機一転大阪へ移転して再開しようと考えていましたが、結局神戸で続けることにしました。
それはなぜですか。
親父に相談した時に、こう言われたんです。「商売人がこの町から出ていったら、この街への希望がなくなってしまう。店の灯を点けて町を元気にしなさい。逃げずに、町の復興のためにも店を続けなさい」と。太平洋戦争の空襲で町が焼けてしまった時も、商売人が元気を与えてくれたと聞きました。
顔見知りのお客さんは、特に喜んでくれたのではないですか。
僕の予想に反して、お店を開けたら常連のお客さんや避難所で生活している人まで、たくさんの人が来てくれました。皆、ストレスも溜まっていただろうし、それを発散したいという気持ちがあったんだと思います。僕の姿を見つけて、常連さんたちは何度も「ありがとう」と言ってくれました。
その一言で救われますね。
神戸で続けて良かったと思えました。話を聞いてほしいからという理由でお店に立ち寄ってくれる人もいましたよ。心の拠り所となっていたのであれば、とても嬉しいことですね。
谷さんも被害が少なかったとはいえ、日常に戻ることすら大変だったのではないですか。
震災直後は大変でしたが、買い物によってストレスを発散するという世間の風潮に助けられたような感じでしたね。震災から3年ほど経過した頃から売り上げが減っていきました。リーマンショックが起こったり、ユニクロなどの低価格の服に世間が目を向け出した頃ですね。今までのやり方ではやっていけないと危機感を覚えました。パソコンの操作を一から勉強し自分でホームページを制作したり、自分で撮影した商品をWEB上で紹介するなど、現状を打破しようといろいろもがいていましたね。苦労もありましたが、その経験がカメラマンという今の仕事につながっていると思うと、無駄なことはないと思えます。
まずはやってみることによって、自分の可能性を広げてきたのですね。
もう一つの大きな転機が東日本大震災なのですが、ある人との縁をきっかけに気仙沼へ支援活動に行ったことがあります。ある時は養護施設で肉じゃがと焼きそばを作ったり、常連のお客さんからいただいた支援物資や義援金を届けに行きました。この活動が、その後の僕の人生を大きく変えたきっかけになりました。
どんな出来事があったのですか。
車で12時間ほどかけて支援に行っていたのですが、言葉に出来ない東北の綺麗な田園風景に胸をうたれました。何度も車を停めて撮影したいと思いましたね。ホームページに掲載する写真を撮り始めた頃から、カメラの楽しさに薄々気づいていましたが、より、自分が好きなものを撮ってみたいという気持ちが強くなっていきました。
幼い頃から興味が向く対象が変わっていなかったのですね。
そうですね。また、ある人との出会いもありました。義援金や支援物資を有効に使いたいと思っていろいろ調べていた際、宮城県南三陸町の「さかなのみうら」という魚屋さんの店主、三浦さんの存在を知ったのです。その人は物資を仕分けして、避難している被災者の元へ適当なものを届ける役割を担っていました。直接お会いして物資や義援金をきちんと使ってくれる人か、自分の目で確かめたいと思い訪ねたところ、三浦さんだけでなく、いっしょにボランティアをしている人たちとも知り合うことができ、新たなご縁ができたのです。それからは陸前高田市へも足を運んだり、東北各地へ行く機会が増え、気づくと「被災地で自分に何ができるかな」と考えていました。自分のお店の経営がうまくいっていない時でしたが、支援活動をすることで自分の問題ごとから逃避していた部分もあったと思います。
三浦さんを信用できると思ったのはどうしてですか。
三浦さんは、経営していた魚屋が津波で崩壊してしまっているのに、町から逃げずにその地で踏ん張っておられました。その姿を見て、親父に言われた言葉を思い出したんです。僕がお店の灯りを点けることで元気になった人がいたことと同じように、三浦さんがやっていることはたくさんの人の元気の源になると信じていました。以前の僕の姿と重なる部分があったんですよね。
IT化が進んでいますが、直接会ってこそわかる部分がたくさんあると思います。
僕も仕事柄、たくさんの人と接してきましたから、生身の人間同士で会う大切さは痛感しています。
三浦さんだけでなく、谷さんもよい影響を受けたようですね。
僕は学生の頃から流れに身を任せ、気持ちが動く方に進んできました。
その流れの中で出会った人や出来事が、人生の分岐点に立った時に方向性を示してくれると思っています。
先ほど、カメラマンの仕事をしていると伺いましたが、支援活動がある程度落ち着いてからカメラマンになられたのですか。
実は、数年ほど飲食店をやっていました。
飲食店に関わるきっかけがあったのですか。
三浦さんが支援のお礼として大量の銀鮭を送ってくれたのですが、とても一人で食べ切れる量ではありませんでしたから、常連さんや知り合いの人にお裾分けをしていたんですよ。当時はまだブティックもやっていましたから、月に数回お客さんを募って共同購入の日を開催したり、「さかなのみうら」神戸支店を作って、お店の前にテントを張り、魚の販売もしていました。
そんなに上手くいくものなのですか。
正直なところ、いろいろ問題がありましたから、きちんとお店を構えようとなったのです。30数年間アパレルの世界で働いてきましたが、呆気なく商売替えをしました。正直気持ちの整理はついていませんでしたね。
谷さんは仕事で料理のご経験はあったのですか。
いいえ、ですから三浦さんのところに修業に行きました。1日に2〜300という数の魚に包丁を入れましたが、自信よりも不安が膨らんでいくだけでしたね。
飲食店経営の経験は、谷さんにとってどのような糧になりましたか。
人を雇う難しさや食材の仕入れ、ブティックの時と同じことをしているようでまったく違いました。結局2年で閉店してしまいましたが、知識も何もない状態から、試行錯誤して出来る方法を見つけようと必死になったことは自分の糧になっていったはずです。
カメラマンを目指して
写真は独学ですか。
はい。マニュアル本を読んだり、自分が経営している飲食店で料理の撮影をしたり、時間さえあれば写真を撮りに出掛けていました。周りには、カメラマンの友人がいたり、モデルになってくれたお客さんがいたりと、独学ではありましたが、協力してくれる人たちもいました。
写真を撮る時はどのようなことを意識しているのですか。
被写体に対して愛情を持ち、もっと良さを引き出したいと思って撮ることです。また、僕自身が撮られることが苦手ということもあり、相手に対してもカメラを意識させず、自然な表情を撮れるように意識しています。そのような写真が撮れた時は、撮影している僕も良い表情をしていると、カメラマン仲間から言ってもらえます。
新たな挑戦に一歩踏み出すことは年々勇気が必要になると思いますが、挑戦することに対しての不安感はありますか。
僕自身、挑戦しているという感覚ではないですね。「気持ちが動いたからやってみる」というシンプルな動機です。ただ振り返って思うことは、分岐点には、いつも必ず誰かの援助があったということですね。
出会った人たちに対して、丁寧に接していたということですね。
僕は頭が悪いというコンプレックスがありましたが、そうした自分を認めてあげることができたんです。そうすると変なプライドがなくなり、周りの人たちが助けてくれたりアドバイスをくれたり、気持ちよく接してくれることがわかってから、良い出会いが増えました。
今後の夢を教えてください。
画家の知り合いがいるのですが、その知人は“写真みたいな絵を描きたい人”で、僕は“絵みたいな写真を撮りたい人”なんですね。いつかコラボレーションしようという話をしています。あとは、やはり好きな風景をゆっくり撮影したいですね。僕は観光地としてスポットが当たっている場所にはどうも惹かれないんです。季節の移り変わりがわかる何気ない田園風景や過疎化が進んでいる地方の町や村の魅力を写真を通して伝えていきたいと思っています。(上の風景写真は谷さんの作品。取材・文/髙久美優)
谷さんの公式サイト
https://www.tanioyaji-photo.com/