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紺碧の将
Interview Blog vol.132

86歳の今も現役。「楽しく仕事をする」が健康の秘訣です。

生地の整理加工川本 恵三さん

2023.03.02

 

 

京都市壬生で、生地の整理加工業を営んで61年。今年86歳になる川本さんは、今も変わらず仕事を続けています。戦中から、時代の変化や生地の整理加工業の変遷など、お話を伺いました。

幼い頃の記憶

どんな子供でしたか。

京都市の壬生で生まれ育ちました。家の近くに壬生寺があり、そこで友達と野球をしたり、塀に登ったり、池で釣りをしては落ちて、泥だらけになって遊んでいました(笑)。今では、池は有料エリアになっているから、塀に登って遊んでいる子供なんて見かけへんくなりましたが、昔は自由に遊べていたんやと思います。

やんちゃな子だったのですね。小さい頃のご家族との記憶などありますか。

私は両親との思い出がほとんどないねん。父は、私が小学3年生の時に海軍に召集され、フィリピンへ向かう沖合で戦死したと聞いています。終戦の2年ほど前でした。

幼い頃にそんな悲しい出来事があったのですね。終戦前と後では、生活はどのように変わりましたか。

家の近くでは、戦車が通れるようにと道幅を広げる工事をしていて、立ち退きを強いられた人もいたようです。私は、終戦前の半年ほど、母の地元の長岡に疎開しとったんです。疎開中に家の中から米軍の爆撃機B−29が淀川あたりで焼夷弾を落としているのを見たこともあります。幸い、地元の壬生は被害がなく、終戦後は疎開する前と変わらない生活ができました。

戦争が身近に迫ってきて、恐怖感はありませんでしたか。

不思議と恐怖感はなく、別世界の出来事のようでした。警報が鳴っても、「また鳴ってる」という感覚やったかな。

とはいえ、子供の頃に遊ぶことを制限されたり、慣れない生活を強いられるのは、辛かったかと思います。

そうやなあ。でも正直、子供の頃の記憶はほとんどないから、平和に暮らせていたということやと思います。

7年間の丁稚奉公

子供の頃、将来の夢や憧れていたものはありますか。

強いて言えば、国鉄で働いてみたいと思ったことがあったけど、英語必須やったから、諦めざるを得なかったんや。高校卒業後は就職先が決まってへんかったから、近所の人に雇って貰いました。それが今の生地の加工という仕事やな。

近所の人が、事業をしていたのですか。

せやなぁ。最初の7年間は丁稚奉公のような立場で働いておったよ。無給やったけど、夜中の3時頃まで仕事をすることはよくあったな。

今の働き方ではまったく考えられないですね。

職人仕事やからね。無給とはいえ、たまにお小遣いを貰えて、それが嬉しかったのをよう覚えとる。

生地の加工とは、具体的にどんなことをするのですか。

織っただけの生地は、シワシワだったり幅もバラバラで、製品にできる状態ではないねん。お客さんの要望に沿って、生地の幅を広げたり整えたり、染色加工をして、綺麗な状態にしているんですよ。みなさんが目にするものはすでに商品になっているものやから、生地の加工と聞いてもあまり馴染みがないかもしれんね。

生地が出来上がるまでにいろいろな工程があるんですね。

たくさんの工程を経てできた生地を一般に流通できる生地に仕上げる最後の工程が、私たちの仕事です。昔はどこも手作業やったけど、今はスイッチ一つでコンピュータが加工してくれる。私が使っている機械は100年近く前のものやから、コンピュータなど高度な機能はついとらんけどな。今この機械を使いこなせる人はどれくらいいるやろか。

手作業とコンピュータでは、どのようなところに違いがあるのですか。

同じ生地でもまったく同じ状態のものはないから、その違いを見極めながら加工していく必要があるんや。適切な温度でないと生地が溶けたり、幅を広げすぎて破けてしまうんやけど、手作業やと微妙な違いを察知し、途中で修正をしながら加工することができるんですよ。コンピュータが加工した生地の修正を依頼してくるお客さんもいはります。

そのような微妙な違いの見極め方は、どのように学ばれたのですか。

最初はすべて見よう見まねで習得していくしかなかったです。働き始めて7年後に、後を継がせてもらって独立したんやけど、その時やっと一人前と認めてもらえたんとちゃいますか。

独立してから

今では7年同じ職場にいれば、だいたいが中堅と呼ばれる層ですよね。独立してからは、お客さんの開拓から作業まで一人で行っていたのですか。

ちょうど独立した頃に結婚をして、妻と一緒に営業をしていました。妻は結婚する前も私と同じ仕事をしていたさかい、一から説明しなくてもようわかってくれました。売上が、初めて自分たちのものになった喜びは忘れられへんな。

独立してから、最初の壁はなんでしたか。

戦時統制が解除され、自由に機械を導入できるようになって、競合が増えていったことやな。私が引き継いだ機械は戦前のもので、周辺に生地の加工を生業としているところはなかったさかい、戦時統制が解除されるまでは、ほぼ独占で仕事をもらっていた状況やったんや。

競合相手とは、どのようにして差別化を図ったのですか。

まずは、お客さんの要望をできるだけ聞いて、納期を守ることやな。工場の2階に住んでいて、いくらでも無理して仕事ができる環境だったから、夜中でも時間関係なく仕事をしていて、近所の人から怒られることはよくあったなあ(笑)。とにかくお客さんの信頼を得るために、必死やった。

独立してからは大変なことの方が多かったと思いますが、自分でいかようにも商売ができる楽しさもあったのではないですか。

頑張ったら頑張った分だけ生活が豊かになっていくのを実感できました。昔は今と違ってものが売れる時代で、作れば作るだけ売れたんや。独立してすぐは、加工し終わった生地を大八車のようなものでお客さんのところへ運んでいたんやけど、車を買ってからはとても楽になりました。確か、昭和37年にミゼットを買ったんやけど、当時車を持っている家庭は珍しく、女性が車を運転していることはほとんどなかったんや。そんな時代に、妻は車の免許を取って、よう営業先を回ってくれました。

3Cの時代の少し前でしょうか。その時代に車を所持し、奥さんも運転していたのですね。

妻が免許を取ったとき、免許センターには、妻含め女性は2人しかいはらへんかったみたいやで。

とても頼もしいですね。

昨年の話なんやけど、小高い山に、山登りをしに行ったんや。私は、少し足が悪いさかい、山の下で待っていたんやけど、妻は何ごともなく山を登って下山しました。ちなみに息子夫婦と孫夫婦も一緒に行ったんやけど、妻以外はみんな足を滑らせて転んどったわ(笑)。

ご年配の方は足腰が強いですね。

加工した生地を運ぶのは、重くて体力も必要やから、長年仕事をしてきた賜物やな。

今までで一番の危機は何でしたか。

バブル崩壊の少し前やったろか。一番の得意先から契約を打ち切られたときやな。安ければいい、といった時代の転換期でもあったんやろうなあ。うちよりも安く対応してくれるところが見つかり、すべてそちらに発注すると言われた。そのお客さんからいただく仕事に頼ってしまっていたさかい、半年ほど仕事がなくなってしまったんよ。それからは妻と一緒に必死で営業し、小さい売り上げでもたくさんのお客さんと取引するように方向転換をしていったんや。今のお客さんと取引できているのは、その一件があったからやと思うと、一概に悪い出来事とも言えへんわな。

どれくらいの取引先があったのですか。

多い時は15社あったなあ。そのうちの7社は、今でも取引させてもらってるで。どの仕事にもいえることやけど、お互いの信頼関係があって初めていい仕事ができるんやと思います。

助けてくれる会社が多いことは、会社にとってとても強みになりますよね。

それからバブルが崩壊して、周りの競合相手やお客さんのほとんどが倒産していった。倒産理由はさまざまやろうけど、一つの判断ミスが命取りになるということを目の当たりにしたなあ。

周りが倒産している中、それを乗り越えられたのはなぜですか。

うまい話に乗らなかったからやな。儲け話に興味がなかったというよりも、この仕事以外で儲けようと考えていなかったんや。目の前の仕事をこなすことに必死やったから、他のことを考える暇がなかったのが、幸いやったな。

とはいえ、少なからず被害を受けたのではないですか。

納品したけど、支払ってもらえなかったことはあったな。お客さん先へ行ったらシャッターが閉まっていて、廃業した旨の貼り紙があったり、倒産しているにもかかわらず、社員はそのことを知らずに仕事をしていた会社もありました。

そんな状況でも、川本さんが無事に事業を継続し、助かった会社も多いと思います。仕事の楽しさは何ですか。

今でも技術を手にできた感覚はなく、満足することがないところやろうか。昔と比べ、生地も多種多様になってきてさまざまな注文がくるんや。どのような生地でどれくらいの温度で加工するのが適切か、一つひとつ見極めることが難しくもあるんやけど、それが今も変わらず楽しめている理由の一つやと思います。

昭和から現在も仕事を続けている中で、時代の変化を直に感じてこられたのではないですか。

戦後の復興時期から、生活がどんどん便利になっていった時代も経験してきました。単価が安い海外に仕事が流れていったり、流行りに左右されたり、消費の仕方が変わってきているのも仕事に影響があるけど、長年の経験で身につけた技術が、自分を助けてくれています。

お客さんもできるだけ続けてほしいと思っているのではないですか。

あと2、3年は続けて欲しいと言われるんや(笑)。仕事が趣味みたいなものやから、そう言ってくれるお客さんがいる限り、頑張りたいと思っています。

(写真上から:・加工前の生地 ・100年以上前の、生地の幅を加工する機械 ・幅の加工をした生地を折り畳む機械 ・加工後の生地

(取材・文/髙久美優)

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