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私たちについて
紺碧の将
Interview Blog Vol.42

表現することが好き。それがたまたまビーズだった。

ビーズフラワーアーティスト木曽康子さん

2018.04.21

昨年フーガブックスからご自身初のビーズ作品集「ビーズの見る夢」を出版。ビーズフラワーとの出会いから45年、作品の制作を中心に、執筆活動、インテリアコーディネートなど活動の幅が広い木曽さんに、多岐にわたってお話いただきました。

初めての作品集、出版に至るまでの経緯

「ビーズの見る夢」を出版されて一年ですが、まず出版された経緯をお聞かせ下さい。

 長年作ってきたビーズの作品があって、撮りためていた写真と連載のために書いたエッセイ、それらがまとめられる量に達した、というのがきっかけでしょうか。フーガブックスの都竹さんとは月刊誌foogaにエッセイを連載させていただいたときからのご縁で、書籍制作の進行具合はだいたい分かっていました。「結構わがままを言ってもいいぞ」という(笑)。言葉のキャッチボールをしている間に何らかの道筋が見えてくるのではないかと楽観視していたんです。一般的にビーズ関連の書籍は、作り方などを説明するハウツー本がほとんどです。でも私はそういうものにはしたくなかった。ビーズに興味がない人も楽しめるようなものにしたかったのです。

作品を撮影されたカメラマンの大橋健志さんとは、どのような経緯でお知り合いに?

 私と大橋さんはともに栃木デザイン協会(DAT)の会員でした。発足してから20年以上になりますが、私たちのお付き合いもそれくらいになります。ビーズという被写体は大橋さんも初めてでしたから、難しかったと思います。カタログのようにきれいにわかりやすく撮るのではなくて、光と影、周囲の雰囲気と作品がいかにマッチしているか、居心地良く見えるかに重点を置いてもらいました。そのためストロボは使わず自然光のみです。ちょうどいい光を求めて何時間も待つこともありました。そんな工程の中から私の求めているスタイル、そしてビーズの本質を大橋さんも体得されたと思います。

木曽さんの作品は強い存在感を主張するというより、日常のシーンにそっと彩りを添えてくれるような、特別な印象があります。

 ワイヤーに通されたビーズは強く硬質感があるはずなのですが、作る人の技や色遣い、表現したい気持ちによって全く別な雰囲気のものが生まれます。私はビーズという素材が好きですし、作品に関してはわがままいっぱいの愛情をかけています。それを理解しようと努力され、共感してくださった都竹さんや大橋さんに仕事仲間としての愛情を感じます。そういうわけでこの本は「ビーズの見る夢」の通り、愛にあふれた一冊になったと自負しています。

木曽さんを夢中にさせたビーズの魅力はどこにありますか?

 難しい質問です、出会ってしまったからしょうがない、といったところでしょうか。フォール・イン・ラブですね。私は富山県高岡市で18歳まで暮らしました。今年の北陸地方は大雪に見舞われましたが、昔は毎年こんな感じでした。色のない真っ白い世界、そこから顔をのぞかせている藪椿の濃い赤が、何かに耐えている自分のようでした。

 高校生の時読んだ梶井基次郎の「檸檬」の中の、カーンと冴えわたるようなレモン色の衝撃は、言葉よりも雄弁に私を憧れの世界へ連れて行ってくれました。今考えると憧れは「光と色」だったのかもしれません。色と光の彩と、ビーズという素材のコンビネーションはどれだけ追求しても飽きるということはありません。きっと相性がいいのでしょう。
 いつだったか御社の髙久社長に「私が牢屋へ入れられたらビーズを持っていく。そうしたら一日中制作に没頭できるから」といったところ爆笑されました。そして「あなたは本当に幸せな人ですね」と言われました。

ビーズに初めて出会われたのが45年前、アメリカ滞在中とのことですが。

 夫の仕事の関係で、家族でデトロイト近郊の都市に住みました。その小さなビーズ屋さんでビーズフラワーと出会い、レッスンを受けることになりました。当時は10人ぐらいの生徒さんのうち、日本人は私を含め3人。2人とも友人なのですが、いまだに私がビーズの世界にのめり込んでいることに仰天しどうしです。英会話がいちばん苦手だった私、決して器用ではなかったのに、やはり「好きこそものの上手なれ」でしょうか。粘り強さは雪国育ちですから。でも確信できることは、教えてくださった先生の感性に惚れこんだことにつきます。たった2年間でしたが、私の目指すビーズフラワーの姿はその時のまま、今もぶれてはいません。

文章を操るということ

『ビーズの見る夢」後半にはエッセイが10編あります。以前にも「海流の旅人」というエッセイ集を弊社から出版されていますね。

 私にとってビーズワークと文章を操ることは車の両輪のようなもので、それで精神のバランスを保っているような気がします。素敵なものや、感動の出会いがあったりすると、とたんに心がワクワクして空想の世界へ飛び立つという特技(?)を持っているようです。これとあれを結びつけたらどんな面白いことが出来るかしら……なんて。一見両者は全く表現の仕方が違うように見えるけれど、私の中ではいつも交差しているんです。生まれたストーリーを形にしたらお花が出来る。こんな色遣いで、飾り方のスタイルはこうで、窓辺に置いてとかランプのそばがいいかしら……なんてどんどんイメージが広がっていくんです。文章は物語を形作っていくけれど、ビーズフラワーやアクセサリー作りの工程にも紆余曲折のストーリーがあります。この花たちはどんな人の目に留まってどんな家に飾られるのかしら、と考えたり、このすごく派手に仕上がったネックレスは似合う人と出会えるかしら、などと想像することはとても楽しいことです。

木曽さんはある時期、作家の内海隆一郎さんから文章修業の手ほどきを受けられたと聞いています。

 当時、内海先生は「シグネチャー」という月刊誌に小説を連載しておられました。あるときそこから「小説作法」というカルチャー教室の案内が届き、応募したというわけです。3年ほど通いました。二か月に一度原稿用紙10枚から20枚くらいの短編小説を提出して、先生の添削が入り、ほかの生徒さんの原稿のコピーと一緒に戻ってきます。それを教室へ持ち寄って皆の講評を先生が改めてしてくださるという授業でした。10人ほどの受講生の作品を分け隔てなく、とても丁寧に指導してくださいました。私たちは、タイプの異なった書き手の面白さを分析してもらうわけですから10倍のお勉強になったわけです。香川県からはるばる新幹線で見えている方もいました。性別も年齢も様々でしたが書くことに執着している人ばかりで、作家志望の真剣な方も見受けられました。あまりの真剣さにいい加減な私は目をみはるばかりで「えらいところへ来てしまった」という緊張感あふれる時代を過ごしました。
 登場人物は早めに、一文章は長すぎないこと、いくつもの事柄を入れないことなど読者の立場に立って読みやすくということが根底にありました。使い古されたあたり前の言い回しはさける、自分の言葉で表現しなさいとよく言われましたね。眼から鱗のような体験で、素人ながら表現するということの道筋がすっきりと見えてきました。
 あるとき、私も恋愛ものを書いてみたいとの思いから、思いっきりやわな雰囲気で仕上げたところ、先生の逆鱗に触れ、「今まで学んできたことの全てが台無しになった!」とまで言われ本当に泣きそうになりました。しかしその後も交流は続き、2年前先生がお亡くなりになるまで愛情を持って厳しく、時には「続きを楽しみにしていますよ」と励まし続けてくださいました。

内海先生の小説は弊社発行の「ジャパニスト」にも連載されていて、私たちもご縁を感じています。

 内海先生のお書きになるものは全て市井の人々の何気ない暮らしぶりの中から、あったかいものをすくい取って丁寧な文章で表現なさいます。「人々の坂道」「人々の情景」など一連の人々シリーズはウオーミングストーリーとして知られています。
 丁寧な生き方を見つめる目は、私たち日本人の精神の有り様を再確認させてくれるという点で「ジャパニスト」の看板小説としてふさわしいと思います。

木曽さんが5年前、フーガブックスから出版された随筆集「海流の旅人」(ペンネーム・林檸檬)は内海文学の影響を受けておられますか?

 物事を丁寧に見つめる、その目に愛情があること、そして一番ふさわしい表現は何かということを自分の言葉で探すという訓練は身についていったと思います。
 たとえば、「みの虫の唄」という一篇は、子供の頃いっぱいいたみの虫はいまどこへ消えてしまったのだろうという疑問に始まって、一年中頭の中は「みの虫、みの虫……」。そのうちにストーリーが出来て行くわけです。だから、みの虫君には私の愛が詰まっています。

インテリアの世界に興味を抱く

以前にはインテリアに関心を持たれ、「インテリアジャーナル」という新聞を作っていらっしゃいますね。

 内海教室に通っていたころはインテリアコーディネーターの仕事に興味があって、スクールにも席を置いていました。早い話、細かくて、つらいビーズワークを諦めようと思っていた時代でもあります。そのスクールのOBとなってから勝手に新聞を作り始めました。毎月だったり季刊誌だったり……自分の好きなように楽しみました。インタビューあり、お店紹介あり、住まいに関して自分流で好きなこと、好きなものを詰め込み45号まで続けました。やめたきっかけは単純です。資金が続かなかったこと、やっぱりビーズしかないわね、ということに落ち着くわけです。ビーズでお金貯めたらまたインテリアに復帰だ! なんて考えていたのですが、未だにその気配なし。そのうちビーズワークが私の天職? と思えるようになってくるものなんですね。一度遠回りをして気づかされることもあります。
 「ビーダリー」というお店を構えたり、専門学校で若い生徒さんにビーズフラワーとアクセサリーを教えたりとビーズ一色の世界にはまりました。

木曽さんの作品は、生活の中にあって日常を潤すもの、楽しくするものを心がけてこられたように思います。そういう意味ではインテリアを学ばれたことは必然だったのではないですか。

 確かにそんな時代があったこと、文章修業をさせてもらったことが、ビーズフラワーを見つめる時の栄養になっています。栄養を頂くとビーズの花やアクセサリーは元気にシックに魅惑的に「私を見つめて!」と訴えてくるように感じます。それが作り手の最高の喜びになります。

これからの木曽さんはどのような方向を目指していらっしゃいますか。

 最近はホテルのロビーをビーズ作品でディスプレイする仕事や、陶芸家さんとコラボレーションしたりする中で、ビーズフラワーの生きる道を模索して来ました。小さな花々のブーケ、花瓶に飾られた花がどのようなポジションで活かされるか想像を巡らせることはとても楽しいことです。ガラスビーズの無尽の色が光と影、陽光とランプ、空間の広がりとのコンビネーションにより思いがけない変化や効果が生まれます。
 「ウインドーディスプレイ」という仕事には、素敵な街づくり、あるいはその場所の印象を際立て何かを訴える仕掛けを作るという魅力があります。ウィンドーは内と外を仕切る重要なポイントになるわけで、そこに引き寄せられて人は中に導かれる。ビーズフラワーの存在がその場所で果たす役割というものを考え、創造していきたいと思っています。

 

 

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