エレクトーン講師から、「幸せのヒントを届ける」ジャーナリストへ。
ジャーナリスト瀬戸川礼子さん
2018.07.01
ジャーナリスト、講演、研修、コンサルタント、各賞の委員と、5つの仕事に携わっている瀬戸川礼子さん。『Japanist』でもたびたび記事を執筆いただきました。元エレクトーン講師という異色の経歴の持ち主でもあります。現在に至った経緯と、これからの未来図とは?
エレクトーン講師からニューヨークへ
難しそうな肩書が並んでいますが、お会いするとそんな雰囲気がしませんね。
そう言っていただけてよかったです。肩書通りだと思われたら、何だか堅物みたいですもんね(笑)。5つの仕事に携わっていますが、自ら望んだのはジャーナリストだけなんです。それ以外は頼まれごとから始まったもので、今では大きなやりがいになっています。とてもありがたいことです。
なるほど、そのいきさつは後で改めてお聞きしたく思います。意外なことに、元エレクトーンの先生だそうですね。
はい、まったく違う畑からやって来ました。エレクトーン講師を辞めて、25年以上経ちますが、いまだに「エレクトーンの先生っぽい」と言われることがあります(笑)。エレクトーンを始めたのは小学4年生で、先生になるには遅いほうでしたが、大好きだったのでとにかく一生懸命練習しました。十八番は「虹の彼方に」。人生のテーマ曲でもあります。
高校卒業後、当時、ヤマハの肝入りだった「エレクトーン講師養成スクール」に入学し、2年間のカリキュラムを終えて、20歳で念願の先生になりました。
24歳で辞めるまでの4年間、3歳~60歳まで少なくとも200人の生徒さんに出会い、音楽の楽しさを伝えられたのは幸せなことでした。また、「人は成長する」と、まざまざと感じられたことは、現在の講演や研修のベースと言えます。生徒は小学生が一番多かったのですが、彼らのきらきらした目の輝きは私の一生の宝物です。
やりがいがあったエレクトーンの先生をなぜ辞められたのですか。
天職だと思っていましたが、辞めた理由は二つあります。一つは成長のためです。私のように稚拙な人間でも、子供たちやそのお母さん、さらには先輩の先生方からも「先生」と呼ばれる。そこに危機感がありました。同じ環境でも人間的に成長される方はいると思いますが、20歳そこそこの私には、謙虚さを持ち続けるのは難しいという直感がありました。それに、かわいい生徒たちがぐんぐん成長するほどに、自分の成長が止まっているように思えて仕方なかった。
みんなと別れるのは寂しくて、仕事の最終日は、家に帰ってわんわん泣きました。友達がかけてくれたお疲れ様の電話は、嗚咽で会話になりませんでしたし、翌朝はボクサーみたいに顔が腫れ上がって、遊びに来た友達が引くくらいでした(笑)。そのくらい断腸の思いでしたが、外に出ようと決心したんです。
もう一つの理由は、先生をしている間にニューヨーク一人旅を2回したことであの街が大好きになり、3回目はもう住むしかないと。働きながらアルバイトもして300万円を貯めました。
決心して向かわれたニューヨークではどのような生活をされたのですか。
とはいっても、ごく普通の1年間の語学留学です。始めの2カ月はブルックリンでホームステイし、その後、マンハッタンで人生初の一人暮らしをしました。飲食店でこっそりアルバイトをしたり、ほかの国から来た留学生と遊んだり、NYを謳歌しました。学んだ英語はかなり忘れてしまいましたが、体験による学びは生きています。
例えば、言葉が違っても思いは通じるという実感ですとか、日本のような「あうんの呼吸」は基本的にありませんから、「言わなければ伝わらない」ことを痛感しました。普段の会話では「レイコはどう思う?」と意見を求められますから、「自分の意見を自分の言葉で発言する大切さ」も実感しました。
さらに、大きな副産物は、自国の日本文化や日本社会の素晴らしさに気付けたことです。多国籍の人と話していると、「日本ってすごいんだ」と、誇らしく思えることがたびたびありました。歴史、文化、治安、自然、四季、言葉、規範、技術、美徳、優しさ…。海外に出たからこそ、頭ではなく肌で感じられたものでした。
ジャーナリストへの道
それは貴重な体験でしたね。帰国後、すぐジャーナリストになれたのですか。
それは簡単にはいきませんでした。帰国後ひと月は無職で、「暇すぎて死ぬ~」という状態でした(笑)。派遣社員などをして、約1年後に『週刊ホテルレストラン』(オータパブリケイションズ社)の編集記者となりました。昔から、「仕事=好きなこと」という図式が自分の中にあって、大好きだったエレクトーンは完全燃焼しましたし、次に好きなことが「書くこと」でした。単純な理由です。
素人が出版社に入社できたのは、当時の編集長がちょうどピアノを習い立てで、元エレクトーン講師の私に興味を持ってくれたからだろうと踏んでいます。面接で楽譜を見せられ、その場で歌ってみせましたから(笑)。まさに、「芸は身を助く」です。
出版社ではどのような仕事をされていましたか。
『週刊ホテルレストラン』の名の通り、宿泊業・飲食業の経営情報誌で、毎週1冊発刊するハードな毎日でした。最新ニュース記事を毎週3~10本、連載ページを3~4本。ほか、時事ネタのグラビアページや、月に1回は特集記事を担当します。その際は、外部のカメラマンさんやライターさんにも手伝ってもらい、自分はプレイヤーとマネジメントを兼務します。
どのページも企画、取材執筆、レイアウト、印刷所での校了、掲載誌の献本まで担当者が責任を持って行う一貫体制でした。ゆとりもなく大変でしたが、自分が企画したページに最初から最後まで携われることはやりがいでしたし、「あの記事は保存版にしています」とか、「まさにあの情報が知りたかった」などと読者に言っていただけると本当にうれしいものです。今もそうですが、記事という光を送る仕事に携われることを幸せに思います。
出版社でもやりがいを持って働かれていたということですが、独立しようと思ったきっかけは何ですか。不安はなかったのでしょうか。
もともと私は独立志向で、出版社でOLになるほうが不安だったくらいです。毎日、同じ時間、同じ場所に通う、規則正しい生活が務まるかしらと(笑)。私が小学1年生のときに父が都内で印刷会社を起業しました。会社と家は離れていましたが、がんばっている様子は子供心にもわかりました。母も子供の手が離れてからは一緒に働いていて、二人とも忙しそうだけれど辛そうではない。引っ越すたびに家も少しずつ大きくなっていきました。こうしたことから、独立はやりがいのあるものだという意識が根付いたのでしょうね。
なるほど環境的に独立は自然なことだったんですね。ジャーナリストとして独立されたのは7年後ですが、独立志向を鑑みると、長く在籍されましたね。
実は入社4年目に、一度、独立を考えました。その時、同僚が言ってくれたんです。「辞めるなら肩書を持ってからにしたほうがいいよ。あなたなら持てるはず」と。私は肩書きには無関心でしたが、「そんなものかな」と思って、素直に退職を延期しました。
すると翌年、副編集長になり、その2年後に独立した後、「元副編集長」という肩書が驚くほど私を助けてくれました。人は何者か分からない人間に対しては、前職の肩書によって安心感や信頼感を覚えるんだなと、身を持って知りました。実にありがたい助言でした。
そしてとうとう2000年に独立されました。意気揚々の船出だったのではないでしょうか。
お陰様の円満退社で、社長をはじめ何人かの方とは今もSNSでつながっています。そのようなわけで独立に不安はなかったのですが、実は、自分で決めた「ジャーナリスト」という肩書にはためらいがありました。「ライター」よりも「ジャーナリスト」のほうが響きがかっこいいし、格が上なんじゃないかと勘違いしたりして(注:格は関係ありません)、そう付けたのですが、実力が伴っていないのは自明の理でした。
当初は、電話で取材のアポイントを取る際、「ジャーナリストの瀬戸川と申します」が言えなくて、「ジャ~☆〇×◇の瀬戸川と申します」と、むにゃむにゃ言葉を濁したりして…。「は?」と聞き返されると、「あ、ライターの瀬戸川です」と簡単に折れてしまう、やわなジャーナリストでした(笑)。
でも、自分の実力を超える肩書を最初から付けてしまえば、後は追い付くしかない。いつか堂々と名乗れるようになるんだ、と自分を鼓舞しました。
独立されてから一貫して「働きがい」をテーマにされている理由は何でしょうか。
独立前はひとことでいえば「お客さまの満足」が取材の焦点でした。宿泊・飲食産業の業界誌ですから当然のことです。一方、私が取材で出会うのは、顧客満足を高める側の「働く人」であり、彼らの献身的な言動によく感服したんです。親しくなってプライベートで食事に行っても、お客さまの話題になるとちゃんと敬語を使う。彼らの真心に触れるうちに、こういう人たちがいるからこそ業界が成り立つのであって、彼らの幸せはお客さま満足よりも大切なんじゃないか、という思いが漠然と芽生えていきました。
「働きがいが一番大切だ」と、明確に気付いたのは、独立間もなくです。業界の枠が外れたことで、宿泊・飲食業だけではなく、製造、建設、医療、金融、小売、ほかのサービス業など、あらゆる業界の取材を始め、世界も情報も広がりました。
当初の取材対象は、「顧客満足の高い会社」でしたが、そういう会社であればあるほど、社員思いの会社だったんです。しかも、儲ける場として会社があるのではなく、人間的成長の場として会社があり、そうした考えの結果、儲けも出ている。「そうか、やはり顧客満足よりも、働く人のやりがいのほうが大事だ」と、確信し、以降は「働きがい」を主軸としています。「感動」や「幸せ」も同類です。
働きがいは、一つの業界ではなく、すべての業界に通じるわけですね。
その通りです。今から2400年前、ソクラテスは、「食べるために生きるな、生きるために食べよ」と言ったそうです。これまでの話の流れで言えば、「儲けるために働くな、幸せになるために働け」ということになります。私は、これが人間の真理だと思う。
これまでに日本全国47都道府県すべてに複数回ずつ赴き、2600人以上の経営者とそれ以上の社員の方々に出会ってきました。その一部は幸せな社員で成り立つ、業績も優秀な優良企業で、全国に点在しています。しかも、業界も立地も規模も関係なく、共通した動きによってそれをかなえているんです。
その共通点とは、数字より心を大切にする、スピードより順番を大切にする、満足より感動を大切にする、威厳より笑顔を大切にする、仕事に感情を持ち込む、率先垂範せず主体性を大切にする、効率より無駄を大切にする、です。これらをまとめた本を2017年に『「いい会社」のよきリーダーが大切にしている7つのこと』として発刊しました。
私が携わりたいのは、こうした「幸せのヒントを届けること」で、もっと言うならば、ちょっとおこがましいのですが、記事も講演も研修も、入口はビジネスだけれど、出口は人生にしたいんです。
仕事の広がり
興味深いですね。ジャーナリストだけではなく、講演や研修、コンサル、委員など、活動が多岐にわたられているのもユニークです。
先ほどと重複しますが、ジャーナリスト以外はご依頼から自然と派生したもので、私としては何の違和感もない流れなのですが、確かに、ジャーナリストが研修やコンサルをするスタイルはユニークかもしれませんね。
講演は、独立1年目の2000年に、ホテレス時代に何度も取材に伺った京王プラザホテルさんからお声がけいただきました。「自分を経営できるのは自分だけ」というテーマでした。独立5年後に1冊目の著書を出したことで、日本全国から講演のご依頼をいただくようになりました。
研修を始めたのは独立3年目で、「講演をされるなら、研修もお願いできますか」と聞かれ、未経験でしたが、「もちろんです」と答えました。研修は、毎月同じ企業に通うコンサルスタイルを中心に、単発でも行います。「リーダー」、「人間力アップ」、「コミュニケーション」などのリクエストが多いですね。
私は会社員時代、研修という学びの場を知りませんでした。ですので、あの頃、知っていたら良かったな、と思うことを多々取り入れています。全国の取材先で得た幸せのヒントを掘り起こし、違う部署の人と語り合う時間を取ったり、ロールプレイングを積極的に取り入れて、現場での実践をしやすくします。
中小企業診断士の資格もジャーナリストとしては珍しいのではないでしょうか。
これまで、経営に関する知識もあまりないまま経営情報誌に携わってきましたから、劣等感や罪悪感がありました。また、取材先から経営のご相談を受けるケースも生まれ、しっかりした知識を得なければと思ったんです。そこで目を付けたのが経営全般の知識を得られる診断士資格でした。
資格を取ったのが2008年の4月で、勉強を始めたのが2000年の12月末ですから…、改めて数えたらぞっとしましたが(笑)、7年以上かかったことになります。
ジャーナリストとして独立したそばから、中小企業診断士の浪人を続ける二重生活ですね。浪人最後の1年は法政の専門職大学院に通って二次合格権利を取得しました。私はもともと高卒ですが、大検みたいな感じで、大学院に入ることができました。そして何の自慢にもなりませんが、30代の青春のほとんどを机の上で過ごしたことになります。
長い間、苦労をされた甲斐があったのではないですか。
そのときはわからなかったのですが、自由に苦労できる環境を与えてもらっていた、ということなんですよね。結果として得たものはとても大きかったですが、この時期、身勝手な生き方をしてしまったので、結婚生活を失いました。
とてつもない代償でしたが、これ以上は危ないと感じるくらい反省をしたことで、見えたものがたくさんありました。「一つの幸せのドアが閉じるとき、もう一つのドアが開く」。これはヘレン・ケラーの言葉です。何年もかかって、そう思えるようになりました。
この経験によって、最も身近にいる人、会社でいえば「働く人」のやりがいや幸せがいかに大切かを心の底から伝えられるようになった気がします。中が幸せだから外も幸せにできる。中が光っているから外に光がもれる。この順番が正しいのです。
以前も、まったく同じ話をしていましたし、本当にそう思っていました。けれど、深度が違うんです。これはきっと、自分だけが感じられる大きな差ですね。
深度が大きく変わる体験だったのですね。独立されて20年の節目が近づいていますが、この期間、仕事全般を通して何か社会の変化を感じられますか。
私がテーマにしている「働きがい」が世の中に浸透し始めている感があります。量より質を重視する流れですね。例えば、「人間力」という言葉は、7年間の出版社時代も独立した2000年当時も、誰も使っていませんでした。でもいまは普通に聞きますよね。「人間力の時代だ」、「人間力こそ会社の力だ」と。
5つ目の仕事であるさまざまな「委員」も、その流れから始まったものです。最初のご依頼は2012年で、経済産業省が主催する「おもてなし経営企業選」の選考委員でした。顧客や地域へのおもてなし以上に、働く人へのおもてなし、つまり「働きがい」を最重視した選考で、質的な成長を重んじる波が見えてきた、と心強く思いました。その意味では、時代は良い方へ変わっていると感じます。
また現在は、ブラック企業の対局にある「ホワイト企業大賞」の委員に携わっています。働く人の幸せと働きがいを最も大切にした賞で、素晴らしい企業と人との出会いがあります。
エレクトーン講師を辞めてニューヨークに旅立ち、出版社から独立して業界の枠を越え、中小企業診断士の浪人生活から抜け出して全国を飛び回られている今、次の新しい道は見えていますか。
ここ数年、新しい道から呼ばれているような感覚があります。現在の仕事から派生する6つ目は、もっと人の内面に寄り添うようなものになる予感です。講演、研修、コンサルをしていると、その必要性を強く感じるんです。同じ会社の仲間同士が同じテーマに向かうことは意味のあることです。しかし、信頼関係ができて個人的に話を聞く関係になっていくと、一人ひとりの立場や悩みは当然、違うわけで、個別のサポートがいるなあと。役立つためには、まずは自分が学ぶ時間が必要ですね。
それはニーズがありそうです。「虹の彼方に」が人生のテーマ曲とのことですが、彼方にたどり着くまでに7つ目、8つ目とまだまだ道が見つかりそうですね。
それは楽しみでもあります。「虹の彼方に」は、メロディの美しさと相まって、歌詞も素敵なんですよ。Somewhere over the rainbow, bluebirds fly.(どこか虹の彼方に、青い小鳥が飛んで行く)、Birds fly over the raimbow,Why then,oh why can’t I?(小さな鳥に飛べるなら、私にだって飛べるはず)。
「なぜ私には飛べないの」と和訳されることが多いのですが、この歌は希望の歌ですから、「私にだってできるはず」と言っているのだと思います。
そして、果てしない虹の彼方に向かって歩む「希望」と同時に、実はこうも思っています。虹の彼方からこちら側を見れば、いま、ここ、私のいるところが虹の彼方だと。この考えは感動的で、じわっと感謝に包まれます。希望と感謝。それを抱きながら、鼻歌でも歌いながら、笑顔で歩いていきたいですね。
(写真上から。ニューヨーク留学 ※左手を挙げているのが瀬戸川さん。取材風景。ファシリテーション風景。ホワイト企業大賞の表彰式にて ※中央が瀬戸川さん。瀬戸川さんの著書)
瀬戸川礼子ブログ「きれいごとでいこう!」
http://76653926.at.webry.info/
瀬戸川礼子 著書
https://www.amazon.co.jp/s?k=%E7%80%AC%E6%88%B8%E5%B7%9D%E7%A4%BC%E5%AD%90
ホワイト企業大賞