経営と真理が統合する感覚がたまらなく好きです。
株式会社オープンマインド 代表取締役児島慎一さん
2018.10.21
出版プロデューサーとしてさまざまなベストセラー本を世に送り出し、著者ブランディングや社内研修にも携わる児島慎一さんは、一貫して「人生の本質を深く探求する」人です。苦しかった20代を経て、37歳で起業。そして今、50歳を目前にしてこれからどういう人生をおくるべきか、自分の本質を見つめ続けています。
うまくいかなかった20代
児島さんはどんな少年だったのですか。
町田市のベッドタウンに住んでいたのですが、野球が好きなごく平凡な子供でした。まわりは自然が豊かにあって、友だちとクワガタやザリガニを採って遊んだり。高校の3年間はサッカー部に所属し、ゴールキーパーをしていました。
子供の頃に思うぞんぶん遊んだ人って、どこか心に安定感がありますよね。児島さんは長身のわりに(笑)、まったく威圧感がありません。
ありがとうございます。母親に怒られなかったことが幸いしているかもしれません。私は母親に叱られた記憶がないんですよ。外で遊んで着ているものを汚して帰っても、「もっと汚してきなさい」って。私をずっと受け入れてくれた母親には本当に感謝しています。じつは高校受験も大学受験も第一希望の学校には入れなかったのですが、結果的に入った学校で楽しむ姿を見て、「あんたはどこへ行っても楽しそうだわね」と母に言われました。そう言われると、そうかなあと妙に納得してしまいました。
大学は明治でしたよね。
はい、商学部です。友人にも恵まれ楽しみました。経営学のイノベーションに関するゼミに参加したり、とにかくいろいろな人に会うのが好きで、これはと思う人には積極的に会いに行きました。当時、あるセミナーに参加した時のことですが、バーに詳しい人が「東京には究極のバーが3つある」という話をしたのですが、それを聞いたあと、青山のバーに行ったんです。ところが、勘定を見て驚きました。持ち合わせがなかったんです。しかたなく事情を説明して、学生証を預けてきました。それからたびたび行くようになったのですが、ある素朴な疑問が湧いてきました。なんだろう、この店の魅力はって。客が一流の人ばかりなんですよ。どうやったら、こういう客層の店を作れるんだろうって考えました。人が集まる空間がたまらなく好きなんですよね。
サロンですね。人と人が出会って発火現象が起きるという。19世紀から20世紀初頭にかけてパリがそうでしたよね。サルトル、ボーヴォワール、ヘミングウェイをはじめ、ジャンルを超えてカフェに集まった人たちが、やがて新しい芸術の担い手になっていきました。
大学4年の時に、京都で大正時代の古民家をリフォームして住んでいる方のところに1週間ほど泊まらせてもらったことがあったのですが、そこには世界中から多士済々が来ていたんです。人が集まる場の力を痛感すると同時に、「自分にはなにもない!」と思い知らされましたね。俺はなにもない。どうすれば、こういう人たちのようになれるんだろうって。
若い頃に悩むというのは健全な証拠ですね。社会人としては、どんなスタートをきったのですか。
NTTの関連会社に就職しました。配属先が電報事業部で、東京の大手町が勤務地でした。電報を受け付ける電話オペレーターを育成する研修担当で、通信用語やパソコンの入力などを教える教官を2年ほどやらせて頂きました。たくさん学ぶことも多く、やりがいもあったんですが、ふと、社員食堂で食べている時など、「なんで俺、ここにいるんだろう?」と疑問が去来し、悶々としていました。その後、結果的に3年半で会社を辞めました。でも、会社を辞めてもそれで何かが拓けるわけではありません。当時は、「自分にはなにもない」と思い込んでいるんですから。自分が打ち込めるものを見い出したいと思っても、それがなんなのかわかりませんでした。船井幸雄さんや中村天風の本をむさぼるように読んだり、図書館に通ったりしてずっと「答え」を探していましたが、それでもわからなかったんです。
それだけ模索しても見つからない。ほとんどの人はそういう思いを抱かないで、自分が乗ったレールの上を無自覚に進んでいきます。ある意味、それは自己防衛でもあると思うのですが。
そうですね。それができたらもっと楽だったんでしょうが、私の場合はそうじゃなかったということでしょう。ある時、大分県で自然農法をされている赤峰勝人さんに会う機会がありました。『ニンジンから宇宙へ』という本を書いた方です。その時に飲んだニンジンジュースに驚きましたね。ニンジンってこんなに甘いのか!と。自分も百姓になろうかなと思ったくらいです。でも、勇気がなくてそこまで踏み出せない。そこでも悶々としてしまうんです。
今の児島さんからは想像できませんね。そんなに苦しんでいたなんて。
その後も続くんです(笑)。いろいろと新しいことに挑戦しようとするも結果につながらず、逆に多額の借金を背負うことになってしまったんです。やりたいことは見つからない、お金に追い立てられるという、つらい状況が続きました。今思うと、本当に苦しい20代でしたね。でも、そういう状況の時に妻と出会ったんです。そんな自分をよく妻も受け入れてくれましたよね。29歳の時に妻と結婚をして、その頃から少しずつ人生が好転してきました。ですので、いまだに妻には頭が上がりません(笑)。
その後はいかがでしたか?
結婚した当初は、外資系通信会社の仕事をしていまして、それからベンチャー企業に移って営業職をしていました。2001年、31歳の時に転機が訪れます。ある起業家のビジネススタートアップに関わることに。現在、その方は世界的に活躍する作家として活躍していますが、当時はまだ無名でした。天才的な起業家でもある彼は、通信教育ビジネス、セミナー、出版などをかけ合わせたビジネスを立ち上げ、私もたまたま立ち上げ期に関わり、さまざまな経験をさせていただきました。その時にゼロから大ベストセラーになっていくプロセスを間近で見られたことは、今もすごく活きています。彼はまさに人生の貴人です。その後、いろいろ葛藤した時期もありましたが、ご縁に恵まれ、2006年12月に会社を設立することになりました。
37歳で起業
それが株式会社オープンマインドですね。社名にどのような思いを込めたのですか。
子供たちと満月の夜を眺めていたんです。くっきりとした円で、自分もこうありたいと思いました。円は「縁」にも「宴」にも「演」にも通じますし、心が開かれているような印象がありますよね。
たしかにそうですね。起業したあとは順調でしたか。
おかげさまで、会社設立後にプロデュースで関わった『戦わない経営』がベストセラーとなりました。著者の浜口隆則さんをはじめ、当時編集して下さった前かんき出版社長の境健一郎さんには、大変お世話になりました。おふたりとの出会いにより、人生がさらに拓けてきました。まさに、人生における「邂逅(かいこう)」ですね。
現在は、出版のプロデュースだけではないですよね。
はい。企業の社内研修講師にも携わらせていただいています。
これもありがたいことに『戦わない経営』がきっかけなんです。ある高齢者向けの事業を全国的に展開されている会社の創業者の方が本を読んで感動してくださり、当時の社員全員に読んで欲しいということで、数千冊ご購入いただきました。自分が関わった本が多く方の手に渡り、お役に立てていることが本当に嬉しかったですね。著者の浜口さんとその会社へお礼に伺ったのが、2007年6月です。その際に、「100年後も成長し続けるための組織をつくりたい」という熱い想いを創業者から伺いました。そのために『戦わない経営』みたいな本を作ってもらえないかというご相談もお受け致しました。
その後、どうされたんですか。
自分に何ができるのか、いろいろと考えました。まずは、関連する本を片っ端から読みまして、その際に『感じるマネジメント』という本に出会ったんです。そこにたくさんのヒントがあり、当時上智大学の神学部長で、イエズス会の重鎮でもあった神父さんのところへ、その創業者と役員の方そして私の3人でうかがいました。そこで貴重なお話を聞くことができました。イエズス会は世界中でどのように布教されてきたのか質問したところ、「布教という時代は終わりました」と。上から下へ、相手の持っていないものを授けてやるのだ、という考え方はもはや機能しません。そして「教えるのではなく、ともに学ぶのです」と。最も大事なことは「相手の心の中にある宝物を相手と一緒に見つけながら、共に豊かになること。伝道者の役割とは、そういうことです」と。それには、「対話」しかない。だからこそ、その「場」を作るのが大事だと。
なるほど、すばらしいお話ですね。
その後、創業者と役員、私の3人でいろいろと話し合いました。現場にも伺い、リーダーのお話もたくさん聞かせて頂きました。まずは、場を作るのが大事だということで塾を作ろうということになりました。名称は「おもてなし絆塾」となり、2007年10月にスタートしました。その塾の立ち上げから関わり、早いもので11年になります。卒業生も約900名近くになり、2018年10月現在も32期生が進行中です。その創業者には経営や人生で大切なことを学ばせていただきました。創業者の大切にしたい理念と想いをまとめた冊子も、2016年に出来上がり、社員全員に届けることができました。今までやってきたことがすべてつながった感じがしました。私がずっと求めていたこと、つまり、「人と人とが交わり合う場を創出するということ。そして、そこに関わる方々とともに寄り添い、創業者の物語や会社が本当に大切にしたいことを紡いでまとめていくこと」そうすることが自分の使命や役割ではないかと、最近は思い始めています。
これからのビジョン
今はどんなことを感じていますか。
おかげさまで、ここ10年くらい大好きな東洋思想全般を深く学び直したり、感情の解放や瞑想などもにも取り組んできたこともあり、だいぶ人生が楽になり、愉快になってきましたね。もちろん、まだまだ課題はたくさんありますよ(笑)。ただ、20代は「自分にはなにもない」と思っていたのが、最近は「すべて自分の中にある」と感じられるようになってきたのは大きな変化ですね。ほんと、当時の自分に教えてあげたいですよ(笑)。心配しなくても大丈夫だよと。なんとか、なると。
これからどんな人生をおくりたいですか。
来年で50歳になるということもあって、あらためて人生の棚卸しをしています。たくさんの素晴らしいご縁に導かれてきた人生でしたので、微力ながらも社会に恩返しをどのようにしたらいいのか、仕事や住まいや家族も含め、これからどういう人生を送っていけばいいのか。そんなことを考えていたおり、御社のサイトにある「ちからのある言葉」を読んでいたら、気になる言葉があったのでそれを抜き書きし、毎日読んでいます。西郷南洲が座右の銘にしたという、陳龍川の「一世の智勇を推倒し、万古の心胸を開拓す」という言葉です。自分一代に得たことなど取るに足りない。ずっと後々の世にも響くようなことをすると解釈しているのですが、自分という小さな枠を超えてこれからどう生きたらいいのか、人生を見つめ直しているところです。
ひとつの言葉によって自省し、今後の方向性を考えていくなんて、素敵ですね。
ありがとうございます。最近、ふと考えることがあります。それは長野で無農薬野菜を作っている方がいて、10年来、美味しい野菜を送っていただいたり、農作業を家族で手伝わせていただいています。その方からも大事なことを教えていただいています。そんなご縁もあり、「いのちをつなぐ安全な食とは何か」を模索する中で、いずれは東京以外に長野にも拠点を構えようかと考えています。
50代がどんな人生になるのか、とても楽しみですね。これからも児島さんらしい人生をおくってください。
有意義な50代を送れるように、自分をさらに磨いていきたいと思います。
(本文写真、上から:①『戦わない経営』著者の浜口隆則さん、その本を担当してくださった前かんき出版社長境健一郎さんと ②「おもてなし絆塾」研修風景 ③東洋思想研究家の田口佳史先生と。青春出版社刊の『あせらない、迷わない、くじけない』にも関わった ④長野の畑にて家族と ⑤近影
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