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紺碧の将
Interview Blog vol.68

日本の優れた美を広く伝えたい

一般社団法人 日本美術工藝協会 代表理事鳥毛逸平さん

2019.01.11

大手の香料会社の役員を務める傍ら、香木の第一人者として活躍してきた鳥毛逸平さんは、50歳半ばにして悔いのない人生を歩みたいと会社を退職。生来、好きだった美しいものを創る人を世に伝えるべく、「一般社団法人 日本美術工藝協会」を設立しました。人生100年時代と言われる今、新たなステージに挑むことの意義とは。その決意と心意気をうかがいました。

一人暮らしの小学生時代

鳥毛さんは、長年、香りの世界に身を置いて来られましたが、そもそもなぜ香りなのでしょうか。

 子供のころから香りが好きだったんです。きっかけは、近所のお姉さんからもらったイブ・サンローランの香水の瓶。宝箱の中に入れて、毎日蓋を開けては匂いを嗅いでいました。小学2、3年生のころだったと思います。

小学1年生が、香水瓶の香りを嗅いでいたのですか。かなり早熟ですね。

 はい(笑)。高学年になると、貯めたお小遣いで祇園まで行き、お香を買って帰り、一人家でお香を焚いて香りを楽しんでいました。

祇園までというと、ご実家は?

 大阪です。

小学生が一人で電車に乗ってお香を買いに行くというのも驚きですが、お香を焚いてうっとりしていたとは、変わったお子さんだったのですね(笑)。どのような家庭環境だったのですか。

 両親ともに画家でしたから、一般の家庭とは違っていたと思います。母は育児だけに専念する人ではなく、絵を描く傍らカメラを始めて、アトリエに暗室を作るなど、好きなことをしていました。父も生活のための仕事をしながら創作活動を続けていました。そういう両親を見て育ったからか、私も好きなことには貪欲ですね。
 父からは、いつも「好きなことをやり続けなさい」と言われて育ちました。じつは、小学生の頃から一人暮らしをしていました。家が狭かったということもあるのですが、3人の弟もそれぞれ近くのアパートで一人暮らしをしていました。といっても、自宅から数分のところですけどね。夕方になると自宅に集まって家族で食事をし、終わるとそれぞれアパートに帰っていくという生活です。ですから、学校へ行く以外、1日のほとんどを自由に過ごしていました。

今では考えられない家庭環境ですね。そんな子供が近所にいたら、児童相談所に通報されますよ。

 でしょうね(笑)。でも、おかげで一人の時間を満喫する術を学びました。音楽を聞いたり、本を読んだりと、毎日好きなことばかりしていました。

学業の方は問題なかったのですか。

 大学の頃はアルバイトに明け暮れていました。1日の睡眠時間は4時間もなかったくらいです。今の睡眠時間も、だいたいそれくらいですけどね。

好きこそものの上手なれ

実際に香の世界に入ったのは、いつからですか。

 24歳の時です。大学を卒業して美術関連の新聞社に勤めたあと、どうしてもお香の仕事に携わりたくて、香料の会社に就職しました。線香の開発をしたかったんです。ただ、入社後に研究室への配属を願い出たのですが、理系出身じゃないと無理だということで営業部に配属されました。最初は営業部で3年、その後は企画部で3年間働きました。それでも、やっぱりお香の開発をしたいという気持ちは変わらなくて……。すると、どういうわけか研究室へ配属されたんですよ。願いがかなったと喜んでいたら、どうも力仕事要員として入れてくれたみたいです(笑)。お香の原料は想像以上に重くて、それを運ぶ人材が必要だったようです。それでも、希望がかなって嬉しかったですね。見るもの聞くものすべてが新鮮で、毎日が楽しくて仕方ありませんでした。天職だと思いました。そうこうしているうちに、海外まで原料の買いつけに行くようになり、やがて、自分が主導して商品開発をするまでになりました。

いかに現場で学ぶことが大切だということがわかります。

 そうかもしれませんね。私は、ただ香りが好きという気持ちが強くて、そこに携われるだけで幸せでした。好きだから、もっと知りたくなるし、もっといい香りを作りたいと思う。香りへの探究心は深まるばかりでした。

楽しみながら働いていたら、その道のプロになっていた、という典型ですね。テレビ番組の「開運! 何でも鑑定団」にも香木鑑定士として出演されたり、奈良の正倉院で蘭奢待(らんじゃたい)が公開された際も講演をされたのですよね。

 はい。それも、気がついたらそうなっていた、という感じです。とにかく、昔から好きなものへの探究心は強くて、古文書を紐解いて昔の香りを再現するということも試したり、『源氏物語』の中に出てくる香りを再現したり……。ほんとうに楽しいんですよ。

第2の人生へ

それほど楽しい仕事だったのに、定年を待たずして退職されたのは、なぜですか。

 仕事で訪れた石川県の山中(やまなか)で、漆作家や蒔絵師の仕事ぶりを見て感動したんです。こんなに美しい仕事をしている人がいたのかと。人知れず尊い仕事をしている人が世の中にはたくさんをいることを知って、感動したのと同時に、ショックでした。伝統を受け継いで粛々とがんばっている彼らが、あまりにも世の中から忘れられているような気がして。伝統工芸だけにかぎらず、機械化が進んだことによって、職人と言われる人たちや美術作家たちの境遇は厳しくなる一方です。これでは、日本文化が廃れてしまいます。そうなれば、日本全体の活力も衰退します。これはなんとかしなければと、危機感が募りました。

それで、「一般社団法人 日本美術工藝協会」を立ち上げられたと。

 一度そう思ったら、もう頭から離れません。これまで私は、ずっと好きなことをして生きてきました。それが、父の教えでもありました。好きな会社で定年まで勤め上げるのもいいと思いましたが、それで後悔はないのかと自分に問うたのです。
 心の中には、すでに新しい芽が芽生えつつありました。好きな美術や工芸に貢献したいという思いです。日本文化の現状を見てしまった以上、それを見て見ぬふりをすることはできませんでした。

長年、香道という日本文化に関わってきたからこそ、それを支える職人たちや美術作家たちの力になりたいということですね。

 はい。後悔はしたくなかった。だから、定年まで待てなかったんです。会社を退職したあと、わずかな資金をもとに香りを扱う会社を立ち上げました。それも、周りの人たちの支えがあったからできたことです。突然のことで、周りの人たちには大変なご迷惑をおかけしたにもかかわらず、彼らはあたたかく応援してくれました。ほんとうにありがたいことです。
 それができたからこそ、そこで得たささやかな利益をもとにして一般社団法人を設立することができたのです。
 今はまだ、どうやって運営していこうかと模索している段階です。日本のすぐれた美術と工芸を広く伝え、本物を求める人に届けたい。とにかく、工芸家や美術作家たちの手業がどんなに素晴らしいかを多くの人に知ってほしいんです。機械ではない、手のぬくもり、自然やモノへの愛情を感じてほしい。それが、日本文化を守ることにつながると私は信じていますし、独立すると決めたときから応援し、支えてくれている人たちにもその成果を見せてあげたい。だから、もう一踏ん張りしたいですよね(笑)。

弊社の髙久も鳥毛さんの思いに共感しています。社会的にも日本文化を守ろうとする動きが広がっています。鳥毛さんの思いは多くの人に届くと思います。がんばってください。

 ありがとうございます。協会のサイト名を「美し人」(うましびと)としていますが、創り手も買い手も、そしてそれらの橋渡し役も美しい存在だという意味を込めています。今後、少しずつ美術作家や工芸家を紹介していきたいと思っています。また、「美しい日本のことば」というコラムでは、ふだんあまり使われることのない日本語の魅力を伝えています。ぜひご覧になっていただきたいと思います。

(写真上から:大学時代、香木を選ぶ、香合、作業中、蓮糸)

Information

【一般社団法人 日本美術工藝協会 公式サイト】

 https://www.umashi-bito.or.jp
 
 

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