地元の誇りを胸に、多くの人に愛される癒やしのお酒をつくりたい。
菊の里酒造株式会社 代表取締役阿久津信さん
2019.04.25
慶応2(1866)年創業の菊の里酒造。かつてはとても小さな酒蔵だったといいます。現在は主力銘柄「大那」を中心に、着実にファンを増やし、海外に進出するほどの酒蔵に成長。栃木県を代表する日本酒「大那」ですが、ここに至るまでの道のりは決して平坦なものではありませんでした。「どれだけ苦しくても自分が信じる道を行って成功させる、大那を育てる、それがブレることはありません」そう阿久津さんは語ります。
厳しい現状、守るべきものが考え方を変えた
阿久津さんは大学卒業後、会社員になられています。その後、水戸の酒蔵で修業し、実家の酒蔵(菊の里酒造)に入っていますが、実家を継ぐことを意識してそういった進路をとったのですか。
次男なので酒蔵を継ぐことを意識したことはあまりなかったんです。お酒の道に進もうと思ったのは就職をして会社員を経験してからですね。2年ほど働きましたが、会社勤めは向いてないと思いました。自分でなにかをやる方が向いてると考えたとき、思い浮かんだのが実家の酒蔵でした。
兄が別の道に進んでいたことと、酒蔵を取り仕切っていた祖父が亡くなってしまったことも実家に入る要因ではありましたが、仕事としても会社員より楽しいだろうと思ったんです。徐々に出世していくより、頑張った成果がダイレクトに返ってくる仕事がしたかったし、組織の人間関係とかルールとか、そういうものに縛られずにある程度自由にできる方がいいかなと思ったんですね。
水戸の酒蔵での修業時代、どんなことを学びましたか。
酒造りの基本的なことはもちろんですが、精神的な部分が一番鍛えられました。最初はどうしていいかわからないのに、仕事は見て覚えろっていう時代でしたから。冬の仕込みの時期になると半年間住み込みで、休みなんてないです。会社員をやっていた方が休みもしっかりあったし楽でしたよ(笑)。
でも、会社員をしたこともその酒蔵で修業したことも、とても良い経験でした。人を雇う立場になると特にそう感じます。
いよいよ実家の酒蔵で働きはじめて、その時点での目標や将来像はなにかありましたか。
当時は無邪気だったというか、純粋だったというか、悪い意味で世間知らずだったんですね。会社の経営状態のことも知りませんでしたし、自分以外に背負うべき責任もなかったので、生活に困らなければいいという考え、それに酒造りは冬だけで夏は遊べるみたいな甘い気持ちがあって……。もちろん実際はそんなことはないですよ(笑)。転機が訪れるまでは将来的なことは何も考えていませんでした。
その転機とはどのようなことだったのでしょうか。
結婚をしたことで、守るべき責任が生まれたことが大きかったですね。それと父が病気になってしまい、いよいよ自分が会社を仕切っていくことになりました。そうなって初めて会社の経営状態を把握し、状況の厳しさを目の当たりにしたのです。
このままでは倒産の可能性もあったので、この状況を打破しないといけなかった。それまでの甘い考えから一転して、自分が未来を切り拓いていくんだって思うようになったんです。
新たなブランド、「大那」の誕生
立場や考え方が一転し、まず何から取り組みましたか。
ブランドをしっかりと構築し、広く認知される日本酒をつくらないと未来はないと考えました。
仕事でお客様のところをまわったあと、いつも閉塞感を感じていたんです。端的に言ってしまうと、ウチのお酒じゃなくても代わりのお酒はいくらでもある、そういう状況でした。逆に自分がお客様の立場なら、この酒蔵のお酒は買わないだろうなって思ってしまったんですね。
当時、菊の里酒造のお酒は、お客様が食卓に置いて楽しく飲むようなものではなく、旅館や式場で出す一升瓶が多く、お葬式のお酒って言われていたんです。美味しいお酒を扱っていない酒蔵という印象を持たれていたと思います。
現状をしっかりと分析し、まずはお客様に喜んで飲んでもらえる美味しい日本酒をつくることが基本だと思いました。
それまでの仕事に対する意識もかなり変わったんですね。
自分が主導でやるなら楽しい仕事、意味のある仕事がしたいと思うようになりました。毎日、新聞のお悔やみ欄を見て「今日はブツの配達か……」なんて、考え方が暗いじゃないですか(笑)。だったら飲んだ人に喜びを与えられるような酒造りをして、食事が楽しくなるような美味しいお酒を作れば売り手も買い手も幸せですよね。
それで「大那」が生まれたわけですね。しかし経営状況が苦しい中、新たなブランドのお酒をつくるのは苦労が多かったのではないでしょうか。
理想の日本酒像はあるけれど、なかなかそこにたどり着けない歯がゆさ、理想と現実のギャップに悩まされる日々との闘いでした。
平成16年に商標登録を完了して、まずは大那という名前を先に決めました。設備が整わないなか、南部杜氏の下、勉強しながら製造し、平成18年から自分が杜氏として本格的な製造を開始。しかし負債の返済や設備投資をしながらでは、思うような酒造りはできませんでした。
質の高い日本酒を作ろうと思えば思うほど、それだけ必要な設備も増える。しかし一方で負債の返済もあるためなかなか導入ができない。そうすると生産量も増えず、結果売上も順調に伸びていかないわけですね。
そういう負のスパイラルから抜け出せない状況が続きました。なかなかお金が手元に残らない経営的な苦しさと、理想の味をつくるためにはこういう設備が欲しいけれどそれが導入ができない悩み、方向性は決まっているのにそこに向かっていけない悔しさを常に感じていました。
そんななかでも、できる範囲で丁寧に大那を製造することで、毎年少しづつ売上は伸びていて、手応えは感じていました。進むべき道は間違っていない、徐々にブランドが認められている確信はありました。
自分が信じる道を行く
軌道に乗ってきたと感じたのはいつ頃からでしたか。
転機が訪れたのは平成21年でした。東京の特約店の酒屋さんからの推薦で雑誌に紹介されて、それがきっかけで知名度が上がり、東日本大震災後の日本酒ブームにも押されて売上が伸びていきました。このあたりからだんだんと歯車が噛み合ってきましたね。設備も整い始め、品質・味の再現性も向上し平成22年には全国新酒鑑評会で初めての金賞を受賞しました。
それまで耐え忍んでいた時期は長かったですよね。しかし阿久津さんは苦しくても、それでも諦めずに大那を育ててきた。
ちょっと歯車が噛み合えば上手くいくはずだというイメージはありましたからね。だからこそ歯がゆかったんですけど。
ウチの酒蔵を買いたいと、M&A(Mergers and Acquisitions:合併と買収)みたいな話もありました。たしかにその話に乗れば経営は楽になったかもしれません。でも人任せの状態では10年先の未来を考えたとき、酒造りの確かな道筋が見えないわけですよ。どれだけ苦しくても自分が信じる道を行って成功させる。大那を育てる。それがブレることはありませんでした。そうじゃないとこの仕事をやっている意味がありませんからね。
今では海外にも進出をされています。
アジアを皮切りに、ミラノ、パリ、ニューヨークへも進出しています。まだまだ海外では日本酒は認知されていませんから、この市場に日本酒を増やしていくワクワク感、面白さは感じています。
最近は特徴のある日本酒が増えていますよね。そういった傾向にならい、海外向けの日本酒の開発なども考えているのでしょうか。
それはないですね。売るためにその土地の人達に合わせた味をつくるというのは、確かに間違ってはいないと思います。でも、たとえそれで一時の成功を得たとしても、そのお酒が定着し、長く愛されるようになるところまではいかないのではないでしょうか。
まずは日本できっちりとブランディングできないようでは海外でも成功するとは思えません。そのためには、いついかなるときもこの味こそが「大那」という日本酒である、この味なら間違いないと思ってもらわないといけません。飽きられない、他に変わりがない、そういう日本酒だと認知されなければ本当の成功とは言えないんですよね。海外でもそれは同じことなので、あくまで大那の味で勝負します。だからこそ意味があるんです。
地元の誇りも背負う
昔はよく海外へ放浪の旅へ行かれていたそうですね。
大学生の頃からお金を貯めては行っていました。ひたすら、好奇心ですね。自由に行き先を決めてスケジュールを組むのが好きで。自分の知らない世界を見に行くことが好きで、実際に行ってみると感動するんですよ。それでその土地のことや施設、歴史のこと勉強するとそれがまた楽しい。実家の酒蔵に入ったタイミングでそういう旅もしなくなりましたけど。
海外の旅で経験として得たこと、感じたことはありましたか。
言葉も違う、髪や肌の色も違う、文化だって違うけど、結局はみんな同じ人間なんだって感じました。おかげで海外に売りにいくときも、あまり壁を感じることはありませんね。県外に行くのと同じ感覚です。
あとは逆に日本のいいところも、海外の世界を知ることで改めて感じることができました。今は海外でも日本が大好きな方が多いですし、日本酒はこれから国内でも海外でもどんどん伸びていくと思っています。
生き方や考え方において、特に影響を受けたことはありますか。
やっぱり結婚して、子供が生まれたことですね。もう自分ひとりの人生じゃないんだって強く感じますから。妻にも子供にも苦労をさせたくないですし、責任という意識が結婚する前とは180度変わりましたからね。そういう気持ちが芽生えたということが大きな意味を持っていると思います。
今後の目標をお聞かせください。
多くの人から愛されるお酒を作り、栃木県を代表する酒蔵になることですね。那須の農家の米を使っているので、地元を背負う誇りも大那には込められていますから。
あとはこれまでお世話になった方々に恩返しをしていきたいです。酒屋さん、農家さん、従業員、家族。本当に感謝のしようがありません。苦しいときに支えてくれた方々とのご縁は財産ですからね。感謝の気持ちを忘れずに、これからもいい日本酒をつくり続けていきたいですね。
Information
【菊の里酒造株式会社】
〒324-0414 栃木県大田原市片府田302-2
TEL 0287-98-3477 FAX 0287-98-3333