興味・学びの原点は天文学、人生は星のかけらでできている。
ななつがたけ北 天文台 オーナー奈良部英男さん
2019.09.25
天文学をきっかけに光学機器・コンピューター・車など幅広い趣味をもつ奈良部さん。いっときは教員となるも退職、コンピュータの知識を活かしその道に進み、やがて有限会社リンクスを起業しました。天文台のオーナーとなれたのはこの会社での成功があったからこそです。天文学という根っこから枝葉のように分かれて育っていったそれぞれの趣味。お話を聞くと、それは奈良部さんの人生そのものといっても過言ではありませんでした。
天文学から広がる趣味
天文学に興味をもったのはいつごろからでしょうか。
中学生のときに、理科の授業で星の勉強をしたことがきっかけでした。その後は高校で天文部に入り、大学でも天文研究部に所属し、ずっと天文学を趣味にしていました。
中学生から今にいたるまで、長い間興味を持ち続けられる天文学の魅力はどこにありますか。
天文学の楽しみ方はさまざまです。星空を眺めてキレイだという人もいれば、天体写真撮影に燃える人、流れ星を追いかける人、ずっと木星だけを見ている人、太陽を専門に調べる人など幅が広いんです。
さらに深く調べたり研究していくと関連する項目がたくさん出てくる。とても奥深く、それらをすべて知りたいと思うと終わりがないんです。
中学生の頃もよく星を観察したんですか。
今から50年近くも前の話になりますが、その頃やっとフィルムやカメラの性能が上がり、星の写真がなんとなくでも撮れるようになりました。それで自分も星の写真をキレイに撮りたいと思うようになり、光学機器にも興味を持つようになったんです。
でもまだ中学生ですから、本格的な機材が買えるわけもなく、町の模型屋で天体望遠鏡の組み立てキットを買って、それで星を見ていました。それなら子供でも頑張ってお金を貯めれば買えたんです。月や土星を見ると意外とキレイに見えて、楽しかったですね。
F1マシーンを作りたいという憧れもあったとか。天文学だけではなく、いろいろな分野に興味があったんですね。
動く精密機械が好きで、その中でも独学で自動車のエンジンを勉強していました。アイルトン・セナが活躍していたF1全盛期で、そういう憧れはたしかにありました。
実は天文学が趣味だという人たちにはある共通点があるんです。星を見るためには何が必要か想像してみてください。まずは望遠鏡やカメラ。だから光学機器に興味を持ちます。そして星を見に行くには山奥まで行く必要があるため、自動車が必要です。さらにデータをとったり、ちょっとした研究をするためにコンピューターを使います。コンピューターを使い始めると、他のことにも使えるから詳しくなる。と、いうように天文学を始めると、全部つながっていくんです。だから星を見る人は同じような趣味を持っているんですね。
天文学というスタート地点からどんどん広がって、それぞれに興味が湧いてくる。いや、興味が湧くというより、天文学に関連するものだから知らないと気がすまないという性分の人が多いんです。
教育の現場を目の当たりにする
大学を卒業後は教員になられていますが、天文学関係の仕事は目指さなかったのですか。
大学進学を考える時期になると現実が見えてきます。天文台に勤めるとか、研究者になるとか、光学機器メーカーに就職するとか、もちろんそういう人たちは現実にいるわけですが、かなりハイレベルな世界ですから。自分はきっとそこまではたどり着けないだろうなと思い、あきらめました。東京大学に行って大学院を出るとか、そういうレベルの人たちの世界ですから。
それでは教員の道を選んだのはなぜですか。
そもそも教員になろうなんて考えてなかったんです。でも父親から教員試験を受けろと言われて、仕方なく受けたら受かってしまいました。もうなるしかないという感じでしたね。
教員生活は11年でピリオドを打っています。自分には合わない仕事だと感じたからですか。
教育目標では子供の個性を伸ばす、生徒一人ひとりに応じた教育をすると謳いながら、実際は個性のある子供は指導する、勝手なことはさせないという教育現場の現実を目の当たりにしました。
当時、男子は全員坊主頭にしなくてはいけない時代で、私は職員会議でそんな必要があるのかと問いましたが、それに対して誰も明確に理由を答えられないんです。それなら髪を伸ばしても問題ないはずだと言っても、その意見に賛成するのは私一人。他の先生は全員反対という立場をとる。なぜかというと、その方が楽だからなんです。それぞれに応じた教育をするより、全員に同じ指導をする方が楽なんです。だからどんどん規則を作る。
現場の先生って子供が納得するまで話すことが上手じゃない人が多いんです。「規則だから」と言えばそれで済むようにしてしまう。
規則が多いほど、厳しいほど反発をする生徒も出てきますね。
子供には個性を発揮したい時期があるんです。勉強ができる子、運動ができる子はそれで目立てるけれど、どちらでも目立てない子はいろいろなことをやりはじめます。それに対して先生が怒って矯正をする。そうすると先生に反発することが正義だと考える子も出てくる。明確な理由もないのに規則だと言って縛りつけるからです。そういう子供たちが大人になったとき、反動で理性がきかなくなってしまうだろうと思いました。
教育の現場でこんなことをやっていたら日本の将来は悪くなる、だからこんな教育に加担したくないと思い教員を辞めたんです。今の日本を見ていると、当時の教育の反動が現れているとつくづく感じます。
辞めるという決断に迷いはありませんでしたか。
これ以上日本を悪くするような仕事はしたくないの一心でしたから、スパッと(笑)。未練はまったくありませんでした。次のことを一切考えずに教員を辞めたおかげで、半年ほど無職になりました。
コンピューター業界の道へ
その後はコンピューター関係のお仕事をしています。その道で仕事ができるほど、パソコン関係も詳しかったんですね。
大学4年生のときにNECのPC-8001という、「パソコン」と呼べる機械の第1号が出たんです。これからはこれを使えるといいだろうと思いました。OSもなく、プログラムなんて発売されていない時代ですから、使いこなすために独学で勉強するんです。
教員のとき、それまでずっと手作業でやっていた成績処理をパソコンで全部処理できるようにしたんです。「今まであんなに大変だったのに、パソコンならこんなに簡単にできるのか」と驚かれましたが、そのためのプログラムを作るのが大変なんですけどね(笑)。
教員時代にそういうことをやっていたおかげで、コンピューター関係の業者さんが雇ってくれました。
コンピューターも天文学と同じくらい興味がある分野だったわけですね。
コンピューターこそ広くて深い世界ですから。天文学は大学卒業後しばらく休止していました。コンピューター業界に身を置いてからは、天文学よりもコンピューターとネットワーク関係の勉強をひたすらしていました。常に最先端を勉強していないと、知識がすぐに古くなる分野でしたからね。
特に当時は、ネットワーク関係が非常に重要でした。それまでパソコンは単独で機能していましたが、コンピューターネットワークが世に出たことにより、パソコン同士の連携が可能になったんです。
パソコンやネットワークが最先端の時代で、それができる人がまだいないということは、自分が最先端になれる可能性があるわけです。勉強をすればそれを仕事にできるし、何よりも興味があったからやってみようという気にもなったんです。
当時のネットワーク関係の仕事というと、どのようなものですか。
学校内にネットワークをつくりたいという工業高校が業者を探していたんですが、当時、栃木県内には請け負える会社がなかったんです。それなら私がやりますと言ってその仕事を受けました。仕組みは理解していましたから、あとは具体的な知識や技術の問題ですが、それは勉強すればできるようになります。それで仕事の発注を受けたあとに、研修に行き、CNE-Jというネットワーク構築の資格を取得しました。結果的にその仕事は成功し、そのおかげで他の工業高校も右にならえです。たくさんの学校から受注を受けましたよ。
この時はまだ会社に所属しているときですよね。社内の評価も相当高かったと思います。
それが相当低かったんです(笑)。もともとその会社はソフトウェア開発がメインで、それ以外の仕事は本来の業務ではないという扱いなんです。利益は相当出しているはずなのに、給料はずっと新卒のままの額でした。結局はその会社も社員が全員いなくなり、そのときに私も辞めました。その後はフリーランスのような形で複数の会社の契約社員をやりました。
当時はコンピューターネットワークの構築ができるとか、パソコンをその職場環境で機能するようにしてから渡すことができる人間は県内では、ごく少数しかいない状況でしたから、仕事は引く手あまたでした。
そんな中、リンクスを起業したわけですが、やはりご自身の中でいよいよという気持ち、将来的な展望があってのことでしたか。
ある程度大きい仕事になってくると、企業対個人ではなく、企業対企業(会社)の取引が望まれてきます。このまま個人でやり続けるのはよくないと思い、“一応”会社を作ったんです。だから志があってとか、社長になりたくてとか、なにか目標があったからではなく、仕事の流れで必要だったからそうするしかなかったんです。
天文台をつくることができた、そのきっかけとなったお仕事があったんですよね。
新設の大学にコンピューターシステムとネットワークを入れる仕事のことですね。もともとその大学にはリンクスとしてではなく、株式会社リコーの営業として行ったんです。大学でコンピューター関係を仕切っている先生に信用していただいて、リコーに発注をもらいました。それが1億円を大きく超える仕事だったんです。パソコンや機器など“物”はリコーが売って、そこから先の技術的な仕事はリンクスが請け負うという形になりました。
金額も大きかったんですが、きっかけとしても大きくて、この実績のおかげで技術的な仕事の案件が増えたんです。
最先端の技術や知識を持っていればこそですね。
当時、パソコンや機材は売れても、それをネットワークにつないでサーバーを立ち上げて機能するところまで請け負える会社は県内では僅かしかありませんでした。だから物はそちらで売る、技術的な部分はリンクスが請け負うという、お互いにウィンウィンの協力関係ができ上がっていたんです。
逆に言えば、リンクスという小さい会社が生き残るためには、他がやらないスキマを探していくしかありませんでした。
会社が軌道に乗ったことで、将来像も変わってきたと思います。
確かにそのときは順調でしたが、この仕事を長く続けることはないだろうとは思っていました。奥に進むほど狭くなる、そして必ず閉じるのがスキマです。日進月歩のコンピューター業界において、いつまでも今のままでいられるなどありえません。システム側が簡単になってくる、売ることに徹していた業者さんが技術を持つようになる、そうなると私の出番が減るのは必然です。
おおよその予測もできていて、50代後半までだろうなと思っていました。実際に、57歳から徐々に仕事の指名も減ってきましたね。
人の体は星のかけらでできている
趣味の天文学は大学卒業と同時に一時中断をしていたとのことですが、再開はいつごろからですか。
リンクスを起業してから数年後くらいですね。時間的に余裕が出来たし、大学の仕事でお金がドーンと入ってきたことで、憧れの天文台を作ることになったからです。天文台っていうのは究極の夢です。自分ではとても作れないと思っていましたから。
天文台のオーナーとなったことで天文学への接し方などに変化はありましたか。
それまでは小さな望遠鏡を外に出して、細々と観察していましたが、星がキレイに見られる南会津に天文台があって、大きい望遠鏡がドンとあるわけですからまるで違いますね。
メインの大きい望遠鏡が真ん中にあって、その周りにサブの望遠鏡がいくつかありますが、サブはそのとき何を見るかで換えていきますし、いろいろな楽しみ方ができるようになりました。
なぜ、人は天文学に惹かれるのだと思いますか。
それには明確な理由があるんです。なぜなら人間の体は星のかけらでできているからなんですよ。
人の体を構成するタンパク質、骨、血液は炭素・窒素・酸素・水素・カルシウム・鉄などの元素でできていますが、宇宙の中ではじめから存在したのは水素だけなんです。それ以外の元素は宇宙が生まれた後、星の中で核融合を繰り返した結果にできたものなんです。その星の寿命が終わり爆発する、宇宙に飛び散ったかけらがまた集まって新しい星を形成する。地球も同じように星のかけらが集まってできたものです。だからそこで生まれた人間も星のかけらでできていると言えるんです。
そういう意味では星は自分の故郷であり、宇宙は自分が昔いた場所と言えるんですよね。そういう情報が体の原子の中に入っていて無意識のうちに何かを思い出しているのだと思います。
今後の目標をお聞かせください。
普段あまり星を見ない若い世代を中心に、大勢の人に天体に興味を持ってもらいたいです。ラジオ番組に出演させていただき、星の話をしているのもその一環です。情報発信の場があるのはすごく貴重で、リスナーさんがメールで感想をくれるとすごく嬉しいです。話したことが役に立ったと実感できますからね。
他にも南会津の天文台に来ていただき、綺麗な星を見てもらいながら星の話をしてあげたり、自分の持っている知識を分けて、星の世界に導けるようなことをしていきたいですね。
Information
【ななつがたけ北 天文台】
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