この街で輝く人がそのままこの街の魅力になる。街づくりの原動力は人なんです。
一級建築士事務所 アンプワークス山口貴明さん
2020.02.25
栃木県下野市で建築設計事務所アンプワークスを営みながら、一般社団法人シモツケクリエイティブの代表理事として下野市に特化した街づくり事業を行い、さらには一般社団法人ブリッジの理事として社会事業、障害者の就労支援、地域の交流にも携わる山口さん。その人生の根源にあるのは「下野市とともに生きる」こと。街づくりとは人づくり。やりたいことが故郷の発展につながり、仕事と街づくりが上手にリンクする。ここに住むたくさんの人たちがそうなれる街づくりを目指したいと山口さんは言います。
郷土愛・親心・下心
一級建築士として、そして街づくりの仕掛人ローカルプロデューサーとしてご活躍の山口さんですが、建築家として地元の下野市で独立、そして街づくりに携わる流れは将来像としてずっと思い描いていたのでしょうか。
建築家として下野市で独立することに関してはそうですね。いずれは地元に戻ろうと決めていました。特に継ぐ家業があるわけでもなく、親に戻ってくれと言われたわけではありませんが、根っからの土着民なんでしょうね。僕が小さい頃に体験した夏祭り、お神輿を大人になったらやるんだとずっと思っていて。身近な人や仲間がいるふるさとが大好きで、それで迷うこともなく故郷下野市での独立を選びました。
ただ、街づくりに関しては、最初からそうしようと思っていたわけではなく、ここで仕事をして住んでみて、次第にこの街をなんとかしなくてはと思うようになったからです。
大人になった今、住んでみて気がついたことがあったんですね。
お神輿をしても人(若者)がいない、戻ってきたけど退屈だという現実があり、ここで建築の仕事を続けていけるのかな? という疑問が生じましたが、都会に比べ何も無く感じる地方の街。「何も無いから、なんでもできる」とポジティブに割り切りました。人を集め、“楽しい”が生まれ続ける仕組みを作り、街を活性化させればいいんだと気づき、そうすることでこの街で建築を求める事業も自ずと生まれるだろうと思いました。
それで街づくりにも関わっていくようになったのですね。
僕の生まれ育った場所であり、建築を行う地盤であり、子供たちにつないでいくふるさとはここしかありません。そこに何がたりなくて、補うためには何をしたらよくて、変えてはいけないものと変えるべきものを自分なりに考えました。そしてそれを知った以上は僕ができることをやるよっていうところからですね。そこに3つの原動力が加わって、今こうしてローカルプロデューサーとしても活動しています。
3つの原動力とはなんですか。
生まれ育った下野市石橋地区が衰退していくのを見たくないという、純粋な「郷土愛」。僕の子供たちのふるさとになるこの場所を、魅力ある故郷にしてあげたいという「親心」。この街に住んで、この街で仕事をして、そして遊べたら、有限な時間を無駄なく使える。この街を、そんな自分の理想に近づけたいという「下心」。この3つが街づくりに対する僕の原動力になっています。
建築との出会い
建築家を目指したのは何かきっかけがあったからですか。
中学生のときF1の世界に憧れて、車やバイクこそが男の仕事だと思っていました。それで進学は高等専門学校の機械工学科を選びました。親からは大学進学時に進路を決めても遅くないと何度も忠告を受けましたが、聞く耳を持たず……。ありがたいことに高専には進学できましたが、機械工学というのはベーシックな部分で地味なんです。それが青春真っ盛りの僕にはハマらなくて、いつしか夢や目標はなくなり、卒業後は学校の先生に勧められるがままに飛行機部品を加工する会社へ就職しました。
一度は別の業界に就職したのですね、そこからなぜ建築の道に進んだのでしょうか。
高専在学中は裏原宿系のファッションだったり、バンドブームだったり、そういったカルチャーが盛り上がっている時代でした。でもそこで僕が虜になったのは「内装集団M&M」という店舗デザイナーでした。
それまでは建築という仕事のことは何も知らなくて、泥臭いものというイメージすら持っていましたが、M&Mはおしゃれな服装で大工道具を携えて、東京都内を中心に、アパレルショップやカフェなどの内装・デザインを手掛けている。クライアントと楽しそうに青写真を描いて、現実にそれを作っている姿がとても新鮮で、こんなものづくりの世界があるんだと思ったのが建築を知るきっかけでしたね。
勤めている会社も仕事自体は楽しかったです。でも明確な憧れが心に残っていたから、満たされることはありませんでした。ものづくりをするなら見て触れて感動できるものを作りたいと強く思いましたし、人生の大半の時間を使ってこれから仕事をしていくのなら、僕が作りたいものを作っていきたい。建築の世界ならそれができると思い、方向転換をしたんです。
大きな決断でしたね。仕事自体は楽しかったのなら、なおさらだと思います。
幼い頃、家族の他に周りにいた大人は近所の農家さん達。いわば自ら切り盛りする一人親方。思えば、そんな生き方に憧れていたのかもしれません。いつからか、将来的に何らかの形で独立しようと思っていましたから、それならやりたいことをやろうという気持ちが決断をさせてくれたんでしょう。両親には仕事を辞めて東京の建築専門学校に行き直すことは伝えていました。高専を卒業させてもらっているんだからと、夜間の専門学校で働きながら学び直すことにしました。
働きながら専門学校に通うとなると大変ですね。
しっかりと学校で建築のことを学ぶんだという決意の一方で、やっぱり東京の生活もすごく楽しみで(笑)。しばらくは授業が終わったらバーテンなど、夜の仕事をして朝方まで働くような生活をしていました。とても充実して楽しいんだけど、ある日、朝方とぼとぼ帰宅しているときにふと思ったんです。「アレ? 俺は何しにここに来たんだっけ?」って。我れに返りましたね。楽しいからといっていつまでもこのままじゃよくないと思いました。それからは建築のスキルが身につく仕事を探そうと思い、学校の近くにあった都市計画関係の会社にアルバイトとして働かせてもらいました。そこで建築や都市計画のアシスタントをやらせてもらいながら専門学校を卒業しました。
王道を外れたからこそ、得られたものがある
専門学校を卒業後はどのように進路をとっていきましたか。
22歳で卒業して、独立するまでの12年間は企画デザイン会社・設計事務所・建設会社の3つを渡り歩きました。遠回りをしたと思いますが、そのおかげで得た強みを今まさに実感しています。
本来建築設計士は、大学で建築を学び、建築家のもとで修業し、そこから独立するのが王道でした。僕も卒業後は設計事務所に入ろうとしましたが、就職氷河期時代も重なり入るのが難しい状況だったんです。
でもそもそも自分がやりたい建築は「これぞ建築」という王道の建築じゃなく、M&Mのような、人の顔が見えてコミュニケーションの中から建築が生まれる、そういう居場所を作りたかったんだと思ったとき、無理して東京で王道を歩む必要はないと思ったんです。いずれは地元で独立したいと思っていましたしね。負け惜しみですけど(笑)。
しっかりと考えた上での結論に聞こえますが、山口さんにとっては負け惜しみなんですか。
そうですよ(笑)。東京ですんなり設計事務所に入れていたら、そのままそこで修業してその後独立という、いわゆる王道を歩んでいたかもしれませんから。でも負け惜しみだとしても、本当に自分がやりたかったことを見失わなかったから、そこで切り替えることができたんだと思います。
それで栃木県に戻り、最初は企画デザイン会社に入ったんですね。
栃木でも設計事務所の門は狭く、それで万博系の仕事をしている企画デザイン会社に入りました。そこで大きなイベントのプロジェクトに関わることができて、それは貴重な経験でした。その後、設計事務所に入ることができ、念願だった建築士のライセンスも取得できました。いよいよ独立をするかどうかと意識をし始めたときに、叔父が経営している建設会社に誘われて。これからの時代は設計もできて建築の現場も知っていると、これは大きな武器になると思い、独立までの期限付きで働かせてもらいました。
建築家としての王道ではなくても、結果として「山口さんの建築」に必要な道を歩んでいたんですね。
自分が求めている場所は王道の建築ではないからと言い聞かせて進みましたけど、企画デザイン会社でイベントの仕事をやったりしている。建築家になりたいはずなのに、やっぱり間違っているのかなと思うときはありました。でも結果的に今、企画の仕事も知りつつ、設計事務所で本来の建築士としての仕事も学び、実際にそれをアウトプットする建設現場の仕事も経験できたことは活かされているし、それが僕の価値になっていると実感しています。
原動力となるのはどこまでも人
ローカルプロデューサーとして、今後の下野市の街づくりの方向性についてどのような視点で見ていらっしゃいますか。
自分はこの街なら輝けるという気持ち、それが人と街をつなぐものだと思うんです。だから街という箱を作るのではなくて、箱を輝かせる原動力となる“人”を多く作ることが重要だと考えます。結局、僕一人が街づくりだと言って箱だけキレイにしても、その箱が人に使われなかったら意味がないんです。街全体が活性化するための原動力になるのはどこまでも人。それも、ここで輝きたいという意志をもったプレイヤー(挑戦する人)なんです。
具体的にはどういった施策を行っていらっしゃいますか。
まずはこの地で楽しい場所作りをします。お祭りやお神輿、しもつけマーケットという民間のマルシェをやってみたり、古民家カフェ「10 picnic tables(通称:テンピク)」もその一つですね。今度はそこで頑張っている人を見てもらって、自分も挑戦したいと思ってもらう。そして心に火が着いた人を僕たちが支援する。この街で輝く人を作らないと、箱であるこの街も輝きませんから。そのためにプレイヤーを応援して、どんどんその輪を広げていく。そんな流れを作っています。
この街に住んでもらうだけではなく、そこでプレイヤーとして輝いてもらうことが重要なんですね。
住んでいてこの街が好きだという気持ちも必要ですが、それだけでは他に魅力的な街があればそっちに移ってしまうことだってあるでしょう。衰退しない街づくりには「やりたいことを叶えられるのはこの街。ここじゃないと自分は満たされない」と思ってもらう“人”が必要で、そのためにはやはりプレイヤーとして多くの人にこの地で輝いてもらいたいんです。
一つ一つの成功事例が増えるほど、周りに点火して広がっていくわけですね。
だから今、下野市にはどんどん面白い人が増えています。シモツケクリエイティブという会社を作らなければこういう出会いはなかったでしょう。一つ一つ積み重ねていく地道な事業になりますが、ちょっとずつ走り出している感じです。
「この街だからこそ自分が活かせる、この街が必要だ」というところまで持っていけると、一過性の人の流れが一過性ではなくなります。一つ一つ火を灯していって、熱をどんどん上げていく。ローカルプロデューサーとしてそこに軸足を置いてやっているところです。
その先にある確かな可能性を信じて
ここ(取材場所)、天平の丘公園にある古民家カフェ「10 picnic tables」で私もランチをいただきました。レストランではなくフードコートなんですね。注文したものを受け取って、古民家の中で食べてもよし、景色のいい公園のテーブルで食べてもよしという自由な形式がとても気に入りました。ここを起点にこの公園にも人が集まっているように感じます。
もともとこの建物は民俗資料館で、この公園も桜の季節以外はほとんど人が来なかったんです。それを下野市が「飲食機能を持つ施設にしたらどうか」という発案をして、シモツケクリエイティブで企画から運営を請け負いました。レストランにしたいという要望でしたが、そこで僕の経験が活かされて、フードコート形式で進めていくことにしたんです。
まずこの手の建物をレストラン用に改装するのは莫大な費用がかかります。構造や防災などに関する規定がありますからね。そもそも古民家は“古民家風”にするよりもありのままの方がいいんです。だからそこはそのままに。代わりに付属の倉庫の方を全面改修すれば手続きも難しくなく、費用もあまりかからないと提案しました。10 picnic tablesという名前にもあるように、ここはレストランじゃなくて公園でピクニックを楽しむお店だよと、そういうコンセプトなんです。
狙いどおりに機能していると感じますか。
まだまだ経営上の数字では厳しいですが、10picnic tables を目当てに来て、公園の存在を知ったり、今まで公園を利用していた方の物足りない部分を補ったり、天平の丘公園に年間を通して人の賑わいを作るという目的の本質を叶えられ始めています。
栃木県マロニエ建築賞では大賞こそ逃したものの、次点をいただきました。その時に「これからの建築は利活用が必要で、それを公共施設としてとてもいい形で出来ている」と講評してもらい、こちらの狙いが正確に伝わって、それが大切だということに共感してもらえたのは嬉しかったですね。
建築や街づくりなど、現在の山口さんの活動において大変なところ、苦労する点などはありますか。
街づくりにおいて人を輝かせていくということは、可能性を高めるための未来への投資であり種まきなので、すぐに結果が出るものではないんです。こういう活動も、いつかは芽が出ないと必然的に続けられなくなってしまいます。だからこそ、しっかりと事業収益なりのお金を生める仕組みを作っていかなければいけません。経済的な自立を考えないと、綺麗事・想いだけで街づくりはできないんです。人を輝かせる街づくり事業が芽が出るまでに時間がかかるのはとても難しい問題だと感じています。
今は自腹を切りながらやっている部分が大きいです。でもその先に確かな可能性があると感じていますから、なんとしてもやってやろうという覚悟は持っています。
すぐには出ない結果、確約されていない成功。これを続けていくことは大変な覚悟ですね。
建築家のボランティア活動としてではなく、まちづくり会社として動き出した今。まさに今が正念場だと思っています。3つの原動力を基にした街づくりへの想いだけじゃなく、やっぱりそれを事業化しないと続かない、引いては輪が広がらないと思いますから。そういう部分をシモツケクリエイティブという会社で事業として勝負するところに高いハードルを感じるし、逆にやりがいにもなっています。街づくり事業の経済的な自立化、これが将来の目標でもありますね。
それに加えて心のよりどころである「HOME」をこの地に創っていく。僕にとって、生活を守る家・心休まる店・気心の知れたヒトとの関係、心が解き放たれる故郷、全てがHOMEです。そんなHOMEづくりをこれからも続けていき、この地に住む多くの人たちにとってもそうであるようにしていきたいですね。
地方の田舎町だけど、お気に入りのお店で美味しいごはんにビールを飲みながら、イカした街の住民達と、次は何を作る!? 何やる!? なんて盛り上がる光景が日常になるように。そんな未来を作っていきます。
(取材・文/村松隆太)
Information
【一級建築士事務所 アンプワークス】
〒329-0502 栃木県下野市下古山1004-1
TEL:0285-52-2418
10picnic tables HP:https://www.tenpyopark.com/