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紺碧の将
Interview Blog Vol.111

新しい紅型で多くの人に幸せを届けたい。

紅型作家新垣優香さん

2021.01.20


沖縄の伝統工芸である紅型(びんがた)に、新しい風を吹き込んだ紅型作家の新垣優香さん。その作品は見る人を明るく幸せな気持ちにさせるとファンは急増中。色鮮やかな大輪の花々とオオゴマダラが飛び交う煌びやかな紅型は、これまでにないアートな紅型としても注目を浴びています。コロナ禍の現状に元気を届けたいという新垣さんにお話を伺いました。

伝統工芸・紅型の世界へ

新垣さんが紅型に惹かれた理由はなんですか。

私は沖縄生まれの沖縄育ちで紅型は昔から身近にあったのですが、特に意識したことはなく、高校で紅型を専門的に学んでからどんどん惹かれていきました。
高校は普通科に加え伝統工芸の紅型を学ぶ染色デザイン科があり、2つ上の姉がそこに通っていたこともあって、私も同じように3年間紅型を学びました。

もともとそういうことが好きだったのですか。

昔から絵を描くのは好きでした。父が趣味で絵を描いていて、家には父が描いた絵がたくさん飾られていましたし、小学校の頃は絵画コンクールで何度か賞をもらいました。賞をもらうのが嬉しくて、それを目標にして絵を描いていたくらいです(笑)。

高校では紅型の基礎から学ぶわけですよね。特に思い出に残っていることはありますか。

高校3年のときの卒業制作展でしょうか。当時は卒業制作の作品が那覇空港に1年間展示されるのが恒例だったんです。今は展示されないみたいで残念ですが、高校3年間ともに過ごした仲間といっしょに朝早くから夜遅くまで学校に残って大きな壁画を制作したことは今も忘れられません。ほんとうに楽しくて、3年間があっという間でした。

高校を卒業した後はどうされましたか。

正直、卒業後のことはあまり考えていなかったんです(笑)。周りが大学進学の準備をはじめたり工房に入る準備をしているのを見て、自分も考えないといけないなと思うようになりました。
でも大学進学は考えられないし、姉がカメラの専門学に行ったように専門学校に行くのもいいかなとも思ったのですが、結局、知り合いに紹介してもらった工房に入ることにしました。専門学校に行って学ぶより、実際に紅型の制作をしたいと思ったんです。

工房で働いてみてどうでしたか。

想像していたのとは、ちょっと違っていました。高校のときが自由だったからか、工房はなんとなく不自由な感じがしましたね。20年、30年のベテランのお弟子さんが、みんなで分担して師匠の作品を仕上げるという、職人の集まりのような工房でした。誰もまったくしゃべらず黙々と仕事をしていて、一日中しーんとしているんですよ。それがわたしには耐えられませんでした。仕事ですから当然なんですが、新入りとはいえ共同作業ですからミスは許されませんし、緊張の毎日でした。

工房では主にどんな仕事をしていたのですか。

基本的に紅型はすべての工程を一人でできるようにならないといけないので、道具作り、図案起こし、型彫り、型置き、色づくり、色差し、隈取り、糊伏せ、地染め、水洗と、いくつもの行程をそれぞれ分担して行っていきます。色の作り方を教わったあと、すぐに色入れをしましたが、指定通り間違いなくすすめていくのはかなりプレッシャーでした。失敗は許されませんから。

高校での紅型制作とは全然違うわけですね。

はい。とにかく緊張の連続でした。高校では紅型の制作は楽しくて仕方がなかったのに、しだいに体が受けつけなくなってしまって。結局、工房は一年で辞めました。

新垣さんにとって、紅型はどういうものなのですか。

沖縄そのものという感じです。見るだけで明るく元気になれる。太陽のように温かい気持ちになれるのが紅型だと思います。私が高校で紅型に夢中になったのも、その工程が楽しかったからで、辛いと思ったことは一度もありませんでした。自由な発想で、自由に創作ができて、楽しくて仕方がなかった。それが私の紅型のスタイルだと気付きました。

自分スタイルの紅型を求めて

それで独立を考えたのですね。

自分は工房で何十年もかけて職人になりたいのかと考えたとき、それは違うと思ったんです。職人じゃなく、自由に制作ができる作家が自分には合っていると。それに、私は誰かの模写ではなく、一から自分の作品を作りたかった。だったら独立しかないだろうと思いました。

紅型を受けつけなくなったとおっしゃいましたが、もう嫌だとか紅型をやめたいと思わなかったのですか。

それはなかったですね。やめたいと思ったことは一度もありません。工房で学んだことは結果的に良かったですし、辛いこともありましたが、もっと奥が深そうだとさらに興味がわきました。

奥が深いとは、たとえばどういうことでしょう。

工房によって紅型の制作スタイルは全然違います。ですから、紅型に詳しい人なら、一目見てどこの工房で作られたのかがわかります。それくらい、紅型は工房や作家の個性がはっきり表れるんです。
私もたまたまその工房が自分に合わなかっただけで、他の工房なら続けられたのかもしれませんが、それでも自由に作品を作るということを考えると、私は工房向きではないとわかりました。
伝統という意味では工房の紅型も素晴らしいものがたくさんありますし、それを受け継いでいくことも大切だと思いますが、それ以上に、紅型にはもっと可能性があると思ったのです。

紅型の可能性とは、どういう?

たとえば、伝統にとらわれずにもっと自由な発想で表現すれば、若い人や紅型を知らない人にも紅型の魅力を知ってもらえるんじゃないかと。表現の仕方で紅型も新しい形になるだろうし、もっと多くの人に知ってもらえると思うんです。自分の作品がそのきっかけになればいいなと思いました。

工房を辞めた後、すぐに独立に至ったのですか。

いいえ、もう一度違うかたちで学び直そうと思い、沖縄県が主宰する伝統工芸指導所、今は「沖縄県工芸振興センター」という名前に変わっていますが、そこに1年間通いました。

そこはどういうところですか。

いわゆる一般の人が通うスキルアップスクールのようなところで、伝統工芸の技術者や研究者の人材育成を行っているところです。紅型だけでなく、織物や漆芸、木工芸などもあり、専門的な技術を身につけて独立をしようとする人や新たに学び直そうとする人が集まって、それぞれの夢や目標に向けて学んでいました。普通の社会人もいれば主婦もいたり、いろんな人がいましたね。そこで学んだ後は必ず技術者になるという条件で1年間の授業料は無償になりますから、独立したい人にはもってこいの学びの場なんです。

それはいいですね。1年後には作家の道が拓けているということは、何か指導所から斡旋があるのですか。

高校の時と同じで指導所でも卒業制作展があるのですが、その時に呉服商の人や企業などが見学に来られるんです。そこで目に留まって個人的に契約が決まればすぐに独立ということもあります。私の場合もそうでした。大阪の呉服商の社長が気に入ってくれて、着物のデザインの依頼が入り、契約が決まりました。

かなりスピーディーな展開ですね。

本当にありがたかったですね。しかも、その社長は伝統にこだわらず自由に作っていいいと言ってくれて、こうしろああしろということは一切言わないんです。私の紅型は個性的すぎて伝統的な紅型とは認められず、『琉球びんがた』の認定証(マーク)もなかったのですが、社長はそんなものはいらない、マークがないのも個性の一つだからと全部買い取ってくれました。普通、認定証がないと紅型とは認められないので、なかなか正規の値段で買い取ってはもらえないんですよ。

それはラッキーでしたね。

そうだと思います。大阪と沖縄で個展を開いてくれたり、大阪で紅型の体験教室まで開催してくれました。着物や帯以外にも作りたいものがあれば作ればいいとも言ってくれたので、以前から作りたいと思っていたパネルづくりにも取り組みました。

紅型作家・新垣優香の確立

作家としての滑り出しは順調そのものですね。新垣優香のオリジナル作品という意味では、何か転機はありましたか。

2011年に琉球銀行主催の「りゅうぎん紅型デザインコンテスト」で大賞を受賞したことでしょうか。20歳から出品し続けて、6年目にしてやっと手にした大賞でした。それまで自分の作品に自信が持てなかったのですが、大賞を受賞したことで自信を持てるようにもなりました。審査員の方々が錚々たるメンバーで、紅型の組合員や理事長、大御所の先生たちでしたから、その方々に紅型と認めてもらえたことがほんとうに嬉しかったです。もっと作品を作っていいんだと思えるようになりました。

その時の作品が今の作品のベースになっているのですよね。

はい。私の得意とする鮮やかな大輪の花です。審査員の方々から嬉しい言葉をたくさんいただきました。その時に、ある大御所の先生から「これからも出し続けて」と言われたのですが、実は、私はそのコンテストを最後にしようと思っていたんです。でも、その方から来年も再来年も出し続けるようにと言われ、しかも次は新垣優香とわからない作品で、とまで言われたので次の年もコンテストに応募しました。

そのコンテストでも大賞を受賞したのですよね。新垣優香とわからない作品だったのですか。

今の私の作品を象徴するモチーフでもある、オオゴマダラをデザインしました。花以外の新しいモチーフを探しにガンガラーの谷に行った時、ガジュマルの森でオオゴマダラが目の前に飛んできて〝これだ!〟と思って。それを作品にして出品すると、審査員のみなさんもびっくりされていました。
技法的には伝統的な重ね型の技法ですが、型染めの上にさらに型を重ね置くというオリジナルの技法です。花の絵柄を染め抜いた後、乾かした上から蝶の型染めをする。そうすることで奥行きとレースのような透け感、立体感が出るんですよ。見る角度によって蝶が浮き上がるのでステンドグラスのようにも見えますね。

新しいモチーフをデザインして型をつくるわけですよね。一度作った型は、何度も使うのですか。

はい。紅型作家にとって型紙は財産と言われるほど大切ものです。一度作ればボロボロになるまで使い続けます。ですから、どんどん増える一方で、私も今では高校時代のものも含め膨大な数の型紙があります。
素材の紙は渋紙が一般的ですが、今使っているのは洋型紙STという渋紙に一番近い新種の紙です。渋紙は使う前に1時間以上水に浸す必要があるので、最近は洋型紙STを使うところが多いみたいです。

2年連続大賞受賞された後は、状況の変化はありましたか。

大きな変化があったのは、父が経営する「ちんすこうくがに」という土産物屋のパッケージデザインをした後ですね。父から店名にちなんだ土産のパッケージデザインをしれくれないかと頼まれ、紅型ではありえないグリッターを素材に使いました。沖縄では〝黄金〟のことを〝くがに〟とうのですが、いつの世までも光り輝くという意味があって、それを表現するには値段も手頃なグリッターがいいんじゃないかと思って。高校の頃に一度使おうと思ったことがあったんですけど、その時はグリッターというものがどういうものか先生たちもわからなくて、金箔と勘違いされて許可されませんでした。

グリッターの輝きは、新垣さんの紅型の特徴の一つでもありますよね。

はい。キラキラ光る輝きは沖縄のイメージにぴったりですし、実際、読谷村(よみたんそん)のアトリエから見える沖縄の海は太陽の光を浴びてキラキラ輝いています。窓の向こうには水平線が広がっていて、波の音と潮風が流れてくるアトリエで創作している時が、私にとって至福の時間なんです。なんて幸せなんだろうって。そういう気持ちを作品で表現したいですね。

新しいモチーフと素材、そしてパッケージデザインという新たな取り組みを始めて、仕事の幅も広がったのではないですか。

かなり広がりました。それまでは作品を商品化することに抵抗があったのですが、パッケージデザインをしたことによって広く知ってもらえることがわかり、企業からの商品化の案件も受けるようになりました。本来は生地に直接絵柄をプリントすることはないのですが、そうことも今はやっています。手染めの頒布は洗えないのですが、プリントだと洗えますから手軽に使えますし、値段も手頃なので気軽に手にとっていただけます。手染めのような高額なものばかりだと、なかなか広がりませんからね。

商品化によって、ファンも増えたでしょうね。

最初は気が進まなかったのですが、S N Sで発信したことが良かったみたいです。企業や顧客からのオーダーが増え、お皿やコップのようなグッズの商品化やスカーフの絵柄のデザイン、洋服、アクセサリーなども手掛けるようになりました。ホテルや空港のエントランスに展示する大型パネルの依頼もあったんですよ。
グッズなどをきっかけに作品を買ってくださる方もいたり、『いつか作品を買いたい』と言ってくれる人もいます。オーダーによって一人ではぜったい思いつかなかったアイデアが生まれるのもとても勉強になりますし、人とのつながりの大切さを感じます。

他にも何か新しい取り組みはありましたか。

2019年のことですが、ある新聞社から紅型の普及のためにオリジナルの皿を作ろうという提案が持ち上がって、その資金をクラウドファウンディングで募集しました。すると短期間で予定額の3倍の資金が集まって、びっくりしました。

それはすごいですね。新垣優香ファンが増えている証拠だと思います。

作れば作るほど周りからお声をかけていただけるというのは、本当にありがたいですね。信じられないです。
あのまま工房にいたら、こんなことはなかったと思います。独創的なアイデアも生まれなかったでしょうし、旅先で受けた刺激を大好きな沖縄の自然と融合させてデザインするというような自由な発想で創作することもなかったと思います。ですから、今のように自由な状況で作品作りができることが嬉しいし、幸せです。何より創作が楽しいです。わたしの作品を見て沖縄を感じてくださったり、喜びの感想を寄せてくれる人が増えたこともありがたくて、次の作品づくりの原動力にもなっています。

紅型はもっと広がるとその可能性を見出し、実際に紅型を新しい形で広めていらっしゃる新垣さんのパワーに驚きです。まさに「くがに」パワーですね。今後の抱負をお聞かせください。

作家生活も11年目で、結婚もし、3歳の子供もいる今は、見る風景も感じ方も一人の時とは変わりました。子供の目線で見ると、何もかも新鮮ですし、忘れていたことを思い出させてくれます。そういう小さな感動も、もっともっと作品で表現できたらいいなと思います。いつか紅型で絵本も作ってみたいですし、海外に向けて紅型の技術や日本のいいものを発信していくことも考えています。
また、いまのコロナ禍で心身ともに疲れている人たちが私の作品を見て元気になってくれたら嬉しいですね。

(写真上から:「KASANARI」、高校の卒業アルバムの表紙に採用されたデザインの型紙、「SAKU」、「Rainbow Rose」、父と娘とプルメリアの花を持って海岸へ絵を描きに、高校の卒業制作で染めた振袖を娘の七五三のお祝い用に仕立て直した、大好きな沖縄の海と娘)

(取材・文/神谷真理子)

 
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