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紺碧の将
Interview Blog vol.113

表現者として、誰かの何かを変えるきっかけになるような芝居をしていきたい。

役者・表現者重松優希さん

2021.03.27

 

「その人にとっての〝いつも〟とはなんだろう」と、演じる役の日常を想像しながら役作りをしていくのが楽しいという重松優希さん。役者の道を志し、その道を極めようと福岡から上京後、アルバイトを掛け持ちしながら養成所や劇団を経て、現在はフリーの役者として数々の舞台に立たれています。誰かの何かを変えるきっかけになる演技をしたいという重松さんに、芝居への熱い想いを語っていただきました。

劇団俳優に魅せられて

ご出身は福岡ということですが、お芝居に興味を持ったのはいつ頃ですか。

小学校の高学年の頃です。学校で行われた劇団の演劇を初めて観たとき、こんな風に人を感動させられる役者さんたちってすごい! と、表現や演技に魅せられて舞台や芝居に興味をもつようになりました。
それまでもテレビドラマで感動することはありましたが、ビジュアルの良さや有名かどうかで役が決まるテレビよりも、ひとつひとつの表現で感動させられる舞台俳優さんの方に、より魅力を感じました。

それがきっかけで舞台俳優を目指されたのですか。

最初は憧れだったのですが、ちょうどテレビで「ふたり」というドラマを観て、芝居への想いが加速しました。
そのドラマは、勉強もスポーツもなんでもできる姉と、姉の後にくっついてばかりいる妹の話で、姉が事故死した後、妹だけに姉の声が聞こえるようになり、役者を目指していた姉の意思を受け継いで役者を目指す妹を姉が導いてくれるという仲良し姉妹の話でした。
私は3人姉妹の真ん中で、ひとつ上の姉がいます。私もドラマのように小さい頃からずっと姉の真似ばかりして姉の後をくっついていました。絵を描くのが好きな姉の影響でわたしも絵を描くのが好きになったり、姉がピアノを習えば私も習い、姉がやめたら私もやめる、という風に(笑)。

ドラマの姉妹にご自身の状況を重ね合わせていたのですね。

はい。もちろん姉は今も元気ですし、絵本作家を目指して地元で絵に関わる仕事をしています。今の私があるのは姉のおかげというくらい、姉は私にとって大きな存在です。

芝居への想いが加速したあと、なにか具体的な動きはありましたか。

劇団に入ったり演劇部に入るとか、そういうことはありませんでしたが、中学のときに放送委員を務めました。それが想像以上に楽しくて。そのとき思ったんです。もしかすると、役者の中でも声優が頂点なんじゃないかと。

それはどういうことですか。

たとえば、表現をする場合、テレビ俳優や舞台俳優は表情や体の動きも使えますよね。でも、声優は声だけで表現しないといけない。それはすごいことだと思ったんです。
実際、高校で放送部に入ると声優を目指す仲間もいて、彼女のアナウンスの表現力には驚きました。高校の放送部といっても年に一度大会があるほど本格的です。話し方の基礎から学びますが、彼女は最初から出来上がっていて、他の誰よりもうまかったです。

その学生は声優になるために特別なレッスンを受けていたのですか。

いいえ、独自で練習していたようです。声優の教本を頼りに、絵に合わせてセリフを言うアテレコのような感じで。それを聞いて初めて、声優という道が実際に開けていることを知りましたし、わたし自身、芝居への情熱がいっそう高まりました。

サッカー漬けのキャンパスライフから芝居の道へ

その後の進路はどうされましたか。

父の勧めで大学に進学しました。ほんとうは専門的にナレーションや芝居を学びたかったんですけど。父が自分の体験から、どうしても子供たちには大学に行かせたかったみたいです。
大学生活でしか得られないものもあるし、好きなことはその後ですればいい、と頑として譲りませんでした(笑)。
「じゃあ自分は何のために大学へ行くのか」と自分で目的を決め、歴史が好きだったこともあり、福岡大学の人文学部歴史学科へ進みました。

大学生活はいかがでしたか。

すごく楽しかったです。女子サッカー部に入って毎日が充実していました。実は小学校のころからサッカーに興味があったんです。当時、転校してきたハーフの女の子がクラスの男子に混じってサッカーをしていたのですが、誘われてちょっとやったらおもしろくて。でも、女の子のするスポーツじゃないと父が反対したため、当時は断念せざるを得なかった。それもあって、大学で女子サッカー部があることを知った時は驚きましたし、念願が叶って嬉しかったですね。

お父様のおっしゃったように、大学でしか味わえない経験をされたのですね。芝居のことは考えましたか。

大学の4年間はサッカーと勉強の日々でしたから、芝居のことはほとんど考えませんでした。遊ぶ暇もないくらい、毎日がサッカーの練習と課題に追われていました。

同級生たちのような華やかなキャンパスライフではなかったですね。毎日ジャージ姿で、家と学校の往復です(笑)。それでもじゅうぶん楽しかったですし、サッカー漬けの毎日でしたが、とくに遊びたいとも思わなかったです。よほどのことがないかぎり休日もほとんど休むことはなかったですね。それは今も同じで、マグロのようにずっと泳ぎ続けている感じです(笑)。

4年間の大学生活を終え、なんとかご家族のご理解も得て、予定どおり上京に至るわけですね。

はい。いちおう経験として一度だけ就活はしました。東京で行われたバンダイの合同説明会に参加したのですが、それが予想外に感動的で。ものづくりをする人たちの映像を観て、最後は一人号泣してしまったくらいです(笑)。
その体験からも、人に想いを伝えることや、その想いが伝わることの喜びを自分も味わいたいと強く思いました。
上京して日本ナレーション研究所に入所してからはアルバイトを掛け持ちしながら週3回、歌とダンスと演技を中心に学びました。

心を体で表現する芝居の奥義を極めるために

アルバイトを掛け持ちしながらのレッスンは体力的にも大変だったでしょう。

それはあまり感じなかったですね。基本的に動いている方が好きなので楽しかったです。ただ、歌のレッスンには苦労しました。実は私、歌が苦手だったんですよ(笑)。
そのことを自覚したのは高校の時で、初めて友達とカラオケに行った時、下顎が痙攣して歌えなかったんです。それからずっと歌だけはダメで……。人前だからというんじゃないんです。ダンスや演技は大丈夫なんですよ。でも歌を歌うとなると急に下顎がピクピクって。喉が震えるというのではなく痙攣するんです。

しかし、役者になるには歌うことも必要になりますよね。

はい。ちょうど3年生でミュージカルを演じることになり、主人公のオーディションがありました。必ず主人公を射止めてみせる! と、歌を克服するために一人カラオケで、必死に練習しました。でも、何度やっても歌い始めると痙攣が始まる。どうすれば痙攣しないで歌えるのかと探っていたら、どうやらお酒を飲んでリラックスしている時は痙攣しないことがわかりました。その状態で人前で歌うことに体を慣れさせ、オーディション本番をやり遂げて主人公を演じることができました。

結果的に声優ではなく、俳優の方へ意識が向かったのはなぜですか。

学んでいくうちに、舞台俳優と声優は辿り着く先がまったく別のものだとわかったからです。声優は声優なりの奥深さがありますし、芝居も芝居なりの奥深さがあります。
ある講師から「たとえば、振り向くという変化。変化とはドラマ。その変化がドラマを生む。右から左を向くだけでドラマが生まれる」という言葉を聞き、なるほどと納得しました。
感情や心の動き、気持ちをダンスにのせると表現という形になります。それは体全体、声にも表れます。心を体で表現する芝居の奥深さを知り、わたしはそれをもっと極めたいと思いました。

どれくらい研究所で学ばれたのですか。

3年間です。ちょうど次の段階のことを考えていた時期に東日本大震災が起こり、それを機に研究所をやめました。
その後のことは、とくに具体的に考えていたわけではありません。やめた後に友人Iから、ミュージカルのときの私の演技を観た別のクラスの人が「一緒にやりたい」と言っていると聞いて、彼がときどき出ている劇団の小劇に誘われ、出演することになりました。

初めての公の舞台出演ですね。

といっても、ほんとうに小さな舞台ですよ(笑)。その初めての舞台で、ちょっとしたハプニングがあったんです。上演中に突然、音響も照明も落ちて真っ暗になるという。
その時、偶然にも真っ暗な状況でも問題のない場面だったこともあり、結果的に事なきを得ましたが、その瞬間はほんとうに焦りました。初めての舞台の、さらに初日1回目の舞台でしたから。

事なきを得たということは、そのまま演じたのですか。

一瞬パニックに陥りそうになったのですが、他の役者さんたちが状況に合わせた演技を声だけでつないでくれたおかげで、わたしも彼らに合わせて演じ続けることができました。結局、最後に出演者みんなで客席にお詫びを言ったのですが、まったく誰も気づいていませんでしたね(笑)。
その一件があって、その劇団に入団を決めました。実は舞台本番前に劇団から入団を誘われて保留にしていたんですよ。4年間在籍し、その後フリーになりました。

さまざまな人生を演じ続ける

それで今に至るわけですね。フリーになった後は、やはりオーディションを受けて舞台に立つのですか。

そうです。いろんな劇団の舞台に立たせていただきました。劇団に在籍中も他の劇団からオファーがあって客演として、ときどき出演はしていましたが、いろんな劇団でいろんな体験をしたくて、今はフリーでやっています。劇団にもいろいろありますからね。

今回、重松さんをご紹介していただいた、以前本欄にも登場された照明家の岩下さんとは、ご一緒に仕事をされているのですね。

ある舞台に立った時、制作の方に「いろんな劇団を研究したいから舞台の手伝いでもなんでも仕事があれば教えてほしい」と伝えてあったんです。その方の紹介で受付をした舞台で、岩下さんと出会いました。舞台後のバラシ(セットを片付けること)を率先して手伝っていると、岩下さんから「あなた何者?」と声をかけていただいたんです。きちんとした身なりで受付に立っていた姿とのギャップがあったんでしょうね(笑)。

まさか力仕事をするようには見えなかったのでしょう。

そうだと思います(笑)。その出会いから2年くらい経って、偶然フェイスブックで岩下さんからご連絡を頂いて、仕事を手伝うようになりました。舞台装置を扱う仕事は初めてでしたが、岩下さんからいろいろ教えていただき、手探りではじめて、もう3年になります。

もちろん芝居を続けてのことですよね。最近はどんな舞台に立たれましたか。

実は昨年、舞台予定があったのですが、コロナで中止になってしまいました。でも、今年の11月に公演が決まってホッとしています。

それはよかったです。劇団にいるときとフリーになってからでは、なにか違いはありますか。

研究所も劇団もそうでしたが、周りとの熱量の違いを感じることが多かったです。私は純粋に芝居が好きで、その道を極めたいと思ってやってきたのに、周りの多くはそうじゃなかった。芝居に情熱を注ぐというより、いかに目立つかということが重要で、芝居への温度差を感じるたびに哀しくなりました。そういう意味でもフリーという立場でやっているほうが、わたしには合っている気がします。

重松さんが芝居をする上で大切にしていることはなんですか。

自分の気持ちを正直に演じることでしょうか。たとえば、気持ちが乗らなくても、その乗らない気持ちを表現する。でも感情には流されすぎない。感情を抑えながらもセリフが自然に出てくるように演じられたら最高ですね。
演じていて感動するのは、役者さんが登場人物が憑依したようにまったく別人に見える瞬間です。
以前、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』でハーミアを演じた時、最後のシーンで父親役の友人Iが表情だけで気持ちを表現したことがありました。台本上ではハッピーエンドで幕を閉じるところ、父親の心は実は悲しみに暮れているのだということをIが表情で語っていたんです。それを見た瞬間、ハッとしました。「そうか、これが本当の父親の気持ちなんだ」と。そのときの私の表情は、きっと複雑な感情がそのまま表れていたと思います。気持ちに素直に演じるということは、そういうことじゃないかと。台本を目で読むだけでは見えない、そこに生きている人がいるからこそ生まれてくる瞬間。あのシーンが生まれたあの瞬間は、今も忘れられません。

最後に、重松さんにとって芝居とはなにか、また今後の目標を教えてください。

お芝居を作っていく時に考えていることなんですが、その人物や世界にとっての日常を想像します。ドラマや作品というのは、いわゆる何かが起こった出来事のお話であり、いつもとは違うからこそ描かれます。
つまり、日常がなければ非日常も起こらない。その日常が、その人の生きている時間だとすると、その人にとっての〝いつも〟とはなんだろう、その人の世界はどんな風に成り立っているんだろうと想像して役を作っていくのが楽しいです。
そうやって、たくさんの人の人生を通って物事を見たり感じたりできるのがお芝居をやる醍醐味であり、そこから誰かの何かを変えるきっかけとなるものを発せられたら最高ですね。
一度きりの人生ですから、後悔のないよう、演じ続けられるまで演じ続けたいです。

(取材・文/神谷真理子)

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