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最大の危機を救った、したたかなリアリズム

第18回 昭和天皇

 日本の長い歴史上、最大の危機は、ポツダム宣言受諾後からサンフランシスコ講和条約によって主権を回復するまでの約6年間だったということに異論を挟む人はほとんどいないだろう。

 その6年間の流れは、あたかも川の水が高いところから低い方へ流れるかのように自然だったと錯覚してしまいがちだが、そんな単純なものではない。当時、日本は無数の選択肢にさらされていた。もちろん、日本が自主的に選べる選択肢ではなく、ほとんどは連合国側の思惑にかかっていて、いずれに転んでも悲惨な状況が待ち受けていたはずだ。

 では、どのようなことがありえたのだろうか。

 

1 ポツダム宣言を受諾せず、戦争を継続

 陸軍は戦争継続を熱望していたし、一億総玉砕も視野に入れていた。原爆をいくつ落とされても徹底抗戦を続けていたかもしれない。

2 ソ連の北海道侵攻による分割統治

 ポツダム宣言受諾があと数日遅れていたらソ連が北海道に侵攻して占領が既成事実化し、ドイツのように分割統治されていた可能性が高い。あるいは、イギリスや中国も加わっての分割統治もありえた。

3 天皇制が廃絶され、国体が変わる

 東京裁判で天皇が戦争責任をとらされ、天皇制が廃絶されれば日本国民が納得するはずもなく、長期的なゲリラ戦が継続された可能性がある。

4 共産化して東側陣営に加わる

 GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のなかで実際に占領統治を担ったのはGS(民政局)だが、マッカーサーやケーディスなど社会主義思想色の強い人物の多い部局だった。彼らは公職追放やウォー・ギルト・インフォメーション(日本だけが悪だという洗脳工作)によって日本の保守勢力を一掃し、替わって共産・社会主義思想者を社会の隅々に配した。朝鮮戦争の勃発によって、アメリカの日本に対する占領政策が変わらなければ、日本は東側陣営に加わった可能性もある。その場合、戦後の繁栄はなく、東欧諸国のような運命をたどったことだろう。

5 ソ連や中国の属国になる

 マッカーサーは日本を非武装中立にするとの信念があり、吉田茂首相もその路線に従おうとしていた。マッカーサーは「東洋のスイス」を標榜していたが、スイスは永世中立であっても非武装ではない。非武装中立で安全保障が担保できるはずもなく、ソ連や中国に侵略され、属国化した可能性もある。

 

 以上の5つ以外にも、日本がたどったかもしれない道筋はたくさんあった。

 それらを考慮すると、実際に日本がたどった終戦から主権回復に至る道筋は、満点に近いといえる。沖縄は引き続きアメリカに統治されることになったが、主権は日本にあると認めさせ、将来的な本土復帰の可能性を残した。

 では、日本がたどった道筋は、東久邇宮内閣から片山・芦田の社会党内閣、あるいは吉田内閣の交渉によって勝ち得たものだろうか。答えは、ノーだ。アメリカは日本の政府などはなから相手にしていなかった。事実、GHQに日本側の要望を伝えても、それが本国に伝えられることはほとんどなかった。

 では、アメリカをはじめ連合国側の〝厚意〟によって日本は最悪の事態を免れたのだろうか。

 それもノーだ。

 各種の資料を見れば、昭和天皇の存在がそのような流れに寄与したことは明らかだ。もちろん、昭和天皇だけがそれをなしたとは言わないが、昭和天皇の意向が時にマッカーサー、時に直接アメリカ本国へ伝わり、日本を未曾有の危機から救うことになったことは事実だろう。

 つくづく思う。天の配剤は絶妙だと。日本史上、最大の危機における天皇が、昭和天皇だったという〝偶然〟に驚かざるをえない。

 昭和天皇は、きわめて冷徹なリアリズムをもった政治家だったともいえる。明治憲法下では「統治権の総攬者」として、戦後の日本国憲法下では「象徴天皇」として、その重責をみごとに担いきった。しかも、合理主義一辺倒ではなかった。終戦直後に始まった巡幸は、民を思う心と万世一系の皇統を保持する一念があったからこそ完遂された。理と情が精妙なバランスで保たれた、稀有な天皇だったと言って過言ではない。

 

生い立ち

 

 昭和天皇は、1901(明治34)年4月29日に生まれた。幼名は迪宮裕仁(みちのみやひろひと)親王。幼いころは養育係の足立たか(後の鈴木貫太郎夫人)を慕い、敬った。

 学習院初等科時代のエピソードがある。「尊敬する人はだれか」という教師の質問に対し、生徒全員が明治天皇をあげたのに対し、(明治天皇を祖父にもつ)裕仁親王だけが源義経をあげた。教師が理由を尋ねると、「おじじ様のことはよく知らないが、義経公のことはたかが教えてくれるから」と答えたという。

 学習院在学中は、乃木希典の教育も受けている。明治天皇同様、質実剛健な君主たらんことを旨とした。裕仁親王は乃木を畏敬し、天皇になったあとも記者会見で乃木とのエピソードをたびたび披露している。

 帝王学を伝授されたのち、1921(大正10)年3月3日から約半年間、皇太子として史上初のヨーロッパへの公式訪問をする。この歴訪は昭和天皇の見聞を開かせるとともに、生涯思い出に残る旅となったようだ。1981(昭和56)年、報道各社社長との記者会見で、「80年間の思い出で一番楽しかったことは?」と訊かれ、「皇太子時代、英国の立憲政治を見て以来、立憲政治を強く守らねばと感じました」と答えている。

 訪れた国はイギリス、フランス、ベルギー、イタリア、バチカンなど。国内には反対意見も根強くあったが、山縣有朋や西園寺公望など元老らの尽力により実現した。

 日英同盟を結んでいた当時、イギリスでは手厚い待遇を受けた。国王ジョージ五世や首相デビッド・ロイド・ジョージらと会見し、バッキンガム宮殿での晩餐会にも招かれた。

 1926(大正15)年、父・大正天皇の崩御を受けて第124代天皇となり、元号を昭和と改め、波乱の人生が幕を開ける。

 

激動の時代の昭和天皇

 

 明治憲法下において、天皇は陸海軍を統帥し、すべての統治権を掌握するとされていたが、実質的に政体は立憲君主制であり、政治的な権限はなかった。昭和天皇が政治的な決断を下したのは、二・二六事件のときとポツダム宣言を受諾するか否かの御前会議で政府が機能不全に陥ったときの2回だけだ。

 昭和天皇が武力行使や暴力行為を嫌っていたのは事実だろう。それを物語るものとして、田中義一首相を叱責したことと二・二六事件をあげたい。

 満州での張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件の責任者処分に関して、時の内閣総理大臣・田中義一は責任者を厳正に処罰すると昭和天皇に約束したものの、軍や閣内からの猛烈な反発にあい、処罰することができなかった。

 昭和天皇は激しく憤り、田中を叱責した。その結果、田中内閣は総辞職に追い込まれ、田中は心労甚だしく、それから間もなく死亡した。臣下を叱責するという行為が死につながると自覚した昭和天皇は、その後、政治に口出しすることに慎重になったとされるが、1936(昭和11)年2月26日に起きた二・二六事件(陸軍皇道派青年将校らが斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣を殺害した事件。岡田啓介首相は偶然難を逃れ、のちに首相となる鈴木貫太郎は四発の銃弾を受け、重症)の際、本庄繁・侍従武官長(陸軍大将)が青年将校たちに同情的な意見を行ったところ、昭和天皇は怒りもあらわにし、自ら近衛師団を率いて鎮圧に当ると発言した。

 昭和天皇の意向は軍の首脳部に伝わり、決起部隊を鎮圧し、厳しく処分することになった。

 

太平洋戦争開戦と終戦

 

 1941(昭和16)年9月6日の御前会議で、対英米蘭戦は回避不可能なものとして決定された。昭和天皇は、御前会議ではあくまでも発言しないことが通例となっていたが、明治天皇が日露戦争開戦の際に詠んだ御製をあらためて詠んだ。

 

  四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらむ

  (四方の海にある国々は皆兄弟姉妹と思う世に、なぜ波風が騒ぎ立てるのであろう)

 

 最後まで開戦に消極的だった心の裡が表れている。

『昭和天皇ご自身による「天皇論」』(半藤 一利著・講談社文庫)に、昭和天皇が侍従長に語った言葉が掲載されている。

「憲法によって、国務上にちゃんとした権限が委ねられ、責任を負わされた国務大臣がある。この憲法上明記してある各国務大臣の責任の範囲内には、天皇はその意思によって勝手に容喙(ようかい)し干渉し、これを掣肘(せいちゅう)することは許されない。だから内治にしろ外交にしろ、憲法上の責任者が慎重に審議をつくして、ある方策をたて、これを規定に遵って提出し裁可を請われた場合には、わたしがそれが意に満ちても、意に満たなくても、よろしいと裁可する以外に執るべき道はない」

 その後の戦局の推移についてはあらためて書くまでもないだろう。

 興味深いのは、昭和天皇が敗因についてきわめて怜悧に考察していたことだ。戦後間もなくのこと、日光田母沢御用邸に疎開していた皇太子(現平成上皇)へ送った手紙のなかで次のように心情を吐露している。

「敗因について一言いはしてくれ 我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである 我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである 明治天皇の時には山県 大山 山本等の如き陸海軍の名将があつたが 今度の時は あたかも第一次世界大戦の独国の如く 軍人がバッコして大局を考へず 進むを知つて 退くことを知らなかつた 戦争をつゞければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくなつたので 涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである」(一部抜粋)

 当時の軍人たちが精神主義に傾き過ぎていたことは、明らかだ。作戦会議においては、「仮に作戦が失敗した場合」という想定すらできなかった。失敗した場合を考えること自体、精神的な敗北だという理由だったという。これでは、まともな論議ができるはずもない。

 当時の軍人たちの精神風土について触れるのはやめよう。いくら言葉を費やしてもきりがないほどひどい組織だった。そのような状況下、昭和天皇は冷静さを保っていた。

 沖縄戦での日本軍の敗北について報告を受けた2日後の1945(昭和20)年6月22日、昭和天皇は鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相、阿南惟幾陸相、米内光政海相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長を集め、戦争終結についてすみやかに検討するよう求めた。これによって、初めて軍の最高幹部に戦争終結の意思を表明した。

 その後、日本の無条件降伏を求めるポツダム宣言が日本に通達された。ただちに閣内で論議するも結論は出ず、広島に原子爆弾が投下された。その2日後、昭和天皇は東郷外相に対し、なるべく早く戦争を終結させるよう伝えた。

 その翌日、長崎に原爆が投下され、ソ連が日ソ不可侵条約を破って対日参戦したとの報告を受けると、木戸内大臣を呼び、鈴木首相とあらためて戦争終結に向けて論議するよう指示した。これを受け、鈴木首相は、同日の御前会議でポツダム宣言受諾の可否を決めたいと答えた。

 会議はポツダム宣言受諾派と徹底抗戦派に二分し、いつまでも結論が出なかった。そこで鈴木首相は昭和天皇に聖断を仰ぐという〝奥の手〟を繰り出した。そして、昭和天皇はポツダム宣言受諾の意思を表明した。

 しかし、この段階で日本政府の方針が確定したわけではない。昭和天皇に政治的な決定権はなく、あくまでも〝意向〟として表明されたに過ぎない。閣議で決定し、あらためて天皇の裁可を受けなければ国家の方針とはならない。

 当時、陸軍にはいまだ370万人の兵力があり、本土決戦ができるという意見が圧倒的に多かった(実際は武器・弾薬がほとんどなかったのだが)。昭和天皇が音読し録音された国民向けの音声がラジオを通じて放送されるという情報を得た陸軍の抗戦派はしつこく抵抗したが、ついに8月15日正午、「終戦の詔書」が放送され、終戦となった。

 のちに昭和天皇は、藤田尚徳侍従長に対して「誰の責任にも触れず、権限も侵さないで、自由に私の意見を述べ得る機会を初めて与えられた。だから、私はかねて考えていた所信を述べて戦争をやめさせたのである。私と肝胆相照らした鈴木であったからこそ、できたのだと思っている」と述べている。

 余談だが、先述の半藤一利著によれば、対米英開戦への強硬政戦略を進めた陣容は大半が薩長出身で、終戦の責任を負ったのは戊辰役の賊軍(米内光政、井上成美、鈴木貫太郎ら)だった。「孤掌は鳴らず、単糸は絃を成さず」という故事をひき、人間と人間の結びつきや排他性によって、歴史はあらぬ方向へ動いてしまうと記述している。

 

アメリカを動かしたリアリズム

 

 終戦後の9月27日、昭和天皇はアメリカ大使公邸に出向き、初めてマッカーサーと会見した。

 マッカーサーは、昭和天皇が必ず命乞いをすると思っていた。法的に昭和天皇に戦争責任がないのはわかっていたが、会見後そのまま戦争犯罪人として収監することもできたし、連合国側には昭和天皇を裁判にかけるべきだという声が多かったからだ。

 ところが、案に相違して昭和天皇は次のように述べた。

「私は、国民が戦争遂行にあたって行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決に委ねるためお訪ねした」

 つまり極東国際軍事裁判(東京裁判)に被告人として臨む覚悟があると言ったのだ。

 この会談内容について、真偽は明らかではない。昭和天皇は30年後の記者会見でこのことに関する質問に対し、「(外部には公開しないという)男同士の約束ですから」と述べている。

 いずれにしても、マッカーサーが昭和天皇の言動に感銘を受けたことはまちがいない。のちに発表された『マッカーサー回想記』では「私は大きい感動に揺すぶられた。この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までもゆり動かした」と記述しているし(マッカーサーは昭和天皇との約束を破り、会談の内容を公開した)、彼の側近だったフォービアン・バワーズは、マッカーサーが昭和天皇との会見後、感動で放心状態だったと証言している。つまり、昭和天皇はたった一回の会見で、マッカーサーの心を揺り動かし、心情を交わす関係にしたのである。会見前、マッカーサーは昭和天皇を出迎えも見送りもしないと決めていたようだが、会見後、予定を変更し、丁重に見送っている。 

 昭和天皇に対するマッカーサーの心象を良くしたことは、その後、わが国にとってさまざまな面でプラスに作用した。

 その背景には、マッカーサー自身の思惑、近い将来、大統領選に立候補するという野望があったことも大きな要因になっていたことだろう。日本の占領統治を円滑に進め、それを実績として選挙に勝とうという魂胆もあったはずだ。それはそれとして、マッカーサーは昭和天皇をないがしろにして日本国民を掌握することは絶対に不可能だと悟った。本国にも、昭和天皇を裁判にかければ、日本を統治するには今後100万人の駐留兵が必要とまで訴えている。ともあれ、サンフランシスコ講和条約が締結されるまでの紆余曲折において、マッカーサーが果たした役割は大きい。

 マッカーサーは朝鮮戦争のさなかに任を解かれ、アメリカに呼び戻された。そして、上院の軍事外交合同委員会で、当時の日本の状況を語ったあと、こう証言した。

「日本が戦争に入ったのは主として自衛のためであった」

 日本は近代産業国家とはいえ、産業の主は繊維産業。石油をはじめ地下資源はなかった。われわれがそれを売らないことにしたため、日本は1000万人から1200万人が失業する可能性が生じ、自衛のために戦争に突入せざるをえなかったと言ったのだ。

 マッカーサーのこの発言によって日本の戦争責任がまったくなかったことにするのは無理があるが、東京裁判で日本を裁いた人の発言である。再度、この証言について研究することも無意味ではないはずだ。

 

人間宣言と全国巡幸

 

 年が明けて元日、詔書が出された。いわゆる「人間宣言」として後世に伝わるものだが、これは曲解されているフシがある。

 なぜ「人間宣言」という異名が定着したかといえば、文中の「朕と爾ら国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とによりて結ばれ、単なる神話と伝説とによりて生ぜるものにあらず。天皇をもって現御神とし、かつ日本国民をもって他の民族に優越せる民族にして、ひいて世界を支配すべき運命を有すとの架空なる概念に基づくものにあらず」という文言が、天皇の神格化を否定したととられているからだ。

 しかし、当時の日本人で天皇を神だと認識している人はいたのだろうか。万世一系を体現する人として崇めることはあっても、天皇が一般の人間とは異なり、神だと本気で思っていた日本人はほとんどいなかったはずだ。

 ところがGHQは、日本人が天皇を神だと思っていると誤った認識をしていたため、それを覆す目的でこの詔書を出させたと考えられる。

 では、詔書の真の主旨とはなにか。原文を読めば明らかだが、要するに、明治天皇が出された五箇条の御誓文の精神に基づき、ともに新たな日本を築いていこうという、一種の檄文である。

 これは同じ年の歌会始めで詠まれた「ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ 松ぞをゝしき 人もかくあれ」(降り積もっている雪に耐えてすっくと立っている松は凛々しい。われわれ日本人もこうありたいものだ)と同じ内容と受け取ってまちがいはないだろう。

 国民への慰撫、激励といえば、昭和天皇はある決意をする。全国をまわって国民に直接会い、勇気づけることを。

 東京をはじめ日本の都市はことごとく破壊され、灰燼と帰していた。食糧も物資もない。働き手の多くを失った。いわば八方塞がりの状況でできることといえば、自らが精神的な支柱となり、国民を元気づけること。

 昭和天皇は、宮内府次官にこう伝えた。

「宮内官たちはわたくしの健康を心配するだろうが、自分はどんなになってもやりぬくつもりであるから、健康とか何とかはまったく考えることなくやってほしい」

 昭和21年2月から始まった全国巡幸は、八年半という歳月を費やし、沖縄県を除く全国3万3000キロにわたった。そして、各地で国民の熱烈な歓迎を受けた。

 このことは米英をはじめとする外国人に驚愕をもたらした。神だと思っていたものが自分たちと同じ人間だと知って多くの日本人は落胆するだろうと思っていたのに(それまでは天皇を見たこともないのだから)、どこへ行っても最大限の尊崇をもって迎えられたのだ。焼け野原でうちひしがれていた人たちが、天皇の訪問を知って、感動にむせぶ姿を見て、日本における天皇の存在の意義をあらためて思い知らされたようだ。

 当時のイギリス紙はこう書いている。

「日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。各地への巡幸において、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている」

 日本という国の重心は天皇にあったのだ。

 

昭和天皇のリアリズム

 

 1947(昭和22)年に施行された日本国憲法において天皇は、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であり「国政に関する権能を有しない」とされている。とはいえ、それまでの〝癖〟がそうさせたのか、あるいはGHQの理想主義に洗脳された政府首脳のていたらくがもどかしかったのか、憲法が発布されてすぐ、改憲を主張した。旧軍閥のようなものが復活するのは論外だが、軍備なくして独立国家として存在することはできない、軍隊を文民統制したうえで防衛の備えをしなければいけない。さもなくば米軍が日本を守る必要がある、と。

 マッカーサーは理想的な政体をつくる実験として日本を非武装中立国にし、国連が安全保障を担うという青写真を描いていたが(現在もそういう、ありもしない理想を掲げている人がいるが)、そんなことでは国民の生命と財産を守ることはできないと認識していたのだ。卓越したリアリズムというべきだろう。

 いっぽうで、新しい憲法における象徴天皇という立ち位置にも適応しようと努めた。

 独立を回復した5月3日の国民に向けての「おことば」の内容に関してのやりとりを記録した「昭和天皇は何を語ったのか 初公開『拝謁記』」というNHKの番組に、初代宮内庁長官田島道治が遺した手帳六冊、ノート12冊に及ぶ昭和天皇との拝謁記が紹介されていた。

 それによれば、昭和天皇は「おことば」に反省という字を入れ、国民に謝罪したいと強く願っていた。しかし、時の総理大臣・吉田茂は削除を求めた。それをきっかけに天皇退位論が再燃することを恐れたからだ。

 吉田の要望を受けて文言を練り直してはまた注文がつく。ついに、昭和天皇は吉田の要望を聞き入れた。象徴天皇である以上、式典でのことばといえど自分の意のままにできないということを察したのだ。

 この番組では、東京裁判で死刑を宣告されていた七人の執行がなされたあと、昭和天皇が三谷侍従長に訊ねたくだりが紹介された。

「私は退位したいと思うが、どう思うか」という昭和天皇の問いに対し、三谷はこう答えた。

「御上が、御苦痛だと思し召す方の道を選ばれてはいかがでしょう」

 昭和天皇が三谷の真意を汲み、その後の糧としたことは、その後の事実が示すとおりである。

 

昭和天皇の学識と創造

 

 昭和天皇は変形菌、植物、ヒドロ虫類の研究者でもあり、リンネ協会名誉会員、ロンドン王立協会会員に名を連ね、在位60年のとき国際生物学賞を受賞している。また『相模湾産後鰓類図譜』などを著した。

 研究題目として自然科学分野を選んだのは、個人的興味というよりも「万葉集」以来の国見の歌同様、祭祀としての自らの立場を考慮してのものと思われる。

 南方熊楠および弟子からは4回にわたって粘菌の標本の献呈を受けているが、このことは特に印象深かったようで、しばしばそのことを御製に詠んでいる。

 昭和天皇は生涯に約10000万首の短歌を詠んだといわれている。うち公表されているものは869首。そのときどきに応じて、国民に向けて歌という形式でメッセージを発し、天皇本来のあり方を自ら体現された。

 波乱の時代を生きた昭和天皇は、1989(昭和64)年、崩御された。継体天皇以降の歴代天皇のなかでは在位期間が最も長く(62年強)、最も長寿(87歳)であった。

 

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