日本を救った武士道の体現者
GHQ政策の犠牲になった明治の偉人たち
東郷平八郎。
日本の歴史において、この人ほど評価が乱高下した例も少ないだろう。太平洋戦争前までは軍神と崇められ、その後は現在に至るまで、日本史の表舞台からほぼ無視され続けている。東郷が生前になしたことは変わらないのに、どうしてこうも評価が変わってしまうのか。
これが「歴史」の怖さだ。
今でも、東郷は世界中で崇敬されている。イギリスなどの伝統的な海運国はもちろんのこと、日露戦争にまったく関わりのなかった国々でもそうだ。トルコではトーゴービールという商品があるほどだ。これら彼我の評価のちがいに、天国の東郷も苦笑いしているにちがいない。
では、なぜこうも戦後の東郷評が下がってしまったのか。
戦後、GHQが日本を統治するにあたって原則とした3項目がある。
①自国の歴史に誇りを抱かせるような歴史教育はしない
②道徳・修身教育はしない
③宗教教育はしない、であった。
この3つを徹底すれば、人間の質は下がるということをGHQの指導者たちはわかっていたのだ。そして、日本人はほぼGHQが意図した通りに変わってきた。特に公職追放後に地位を得た日教組をはじめとした教育界、学界、メディア、政界に顕著であった。つまり、東郷平八郎のような傑出した人物の功績を日本人に知られてはまずいのである。日本人が日本人であることに誇りを抱いてしまうから。
集英社版『日本の歴史18 日清・日露戦争』を読むと、そのことが手にとるようにわかる。編者は明治大学教授(当時)の海野福寿氏。「はじめに」で次のように書いている。
――東郷を学習素材としなくとも日露戦争を学習することはできるはずである。それにもかかわらず、あえて軍神・東郷を復活させ、英雄視していることは、軍事力=戦争肯定の思想によると勘ぐられても仕方あるまい。
文部省(当時)の新指導要領に関しての記述である。
また、「日の丸、君が代を国旗、国歌とする法的根拠は何もないのだが、卒業式における国旗掲揚、国歌斉唱の義務化と照応する、文部省の押しつけである」「歴史を動かしていく力は民衆にある、とせず、民衆を敵視し、すぐれた為政者が日本の発展を指導した、と考える文部省は、新指導要領で四十二人の人物を例示した」として、坂本竜馬や勝海舟、西郷隆盛、大久保利通など幕末・維新後の偉人たちを教科書に載せることに反対している。
常識では考えられないような偏った考え方の人が大手出版社の歴史書を編纂しているのである。海野氏は東郷を「好戦的な人物」と決めつけているが、実際の東郷は戦争に消極的だったし、国際法にも通暁していた紳士だった。捕虜の扱いなど、武士道精神のお手本のようであり、各国から絶賛された。自分をひけらかすことをせず、終生、寡黙な人であった。
海野氏のような偏見をもった学者が歴史書を編纂しているということは、GHQの統治政策が現代にも影響しているという証である。歴史的な偉業をなした人物を顕彰できないのは、偏狭以外のなにものでもない。
隼人式という教育
東郷平八郎の顔に人格が表れている。きりりと引き締まった顔だち、短く刈り上げられた頭髪、白いものが混じっているが威厳のある髭、意志の強さを物語る鼻梁、薩摩隼人たる太い眉……。しかし、なんといっても目を奪われるのは、清澄な瞳である。なんと高潔で誇り高く、それでいて優しい眼光だろう。磨き上げられた精神性がそのまま表れているような目だ。どのようにしたら、このような目になるのだろうか。
その人が常日頃、何を考えて生きているのか、その積み重ねが目に表れる。目は心を映す鏡でもある。傲慢になり、増長癖を膨らませていった昭和の軍人の目と比較してもらえれば、東郷の目の意味がわかるはずである。
東郷が生まれたのは1847(弘化4)年12月22日。場所は薩摩藩加治屋町。幼名は仲五郎といった。
ちなみに、加治屋町は70戸ほどの小さな集落だが、その狭い地域に西郷隆盛、大久保利通、大山巌(日露戦争時、陸軍大将)、山本権兵衛(同海軍大臣、後に総理大臣)、黒木為楨(同陸軍司令官)らきら星のごとく傑物が生まれた。このような人物たちが同じ時代、同じ地域に生まれたことを単なる偶然ととらえていいのだろうか。レノンとマッカートニーが同時代にリバプールで生まれた例もまさしくそうだが、見えざる天の配剤が働いていると考えたくもなる。
それはともかく、薩摩藩から稀有な人物が輩出された理由のひとつに、隼人式と言われる厳しい教育があった。8歳くらいになると朝薄暗いうちから起きて書道の稽古をし、身を整えた後は朝食を済ませ、それぞれの友人宅を順番にまわり「論語」や「孟子」など四書五経の素読、さらに外へ出て水練などに勤しみ、昼食後は演武館にて示現流という薩摩独特の剣法を学び、夕食後も友人の家などに集まって武芸談や英雄伝などで、偉大な先人たちの生き方を学ぶ。
つまり、朝起きて夜眠りに就くまで、すべてが人物鍛錬なのである。すべての子供がそういう学びを続けるのだから、否が応でも向上心、公共心は身につく。裏を返せば、そういう教育とは正反対といっていい教育を施されている現代の子供たちに人間としての規範や将来の夢が欠落しているのは当然のこととも言える。隼人式の教育は、日本のこれからの教育のあり方を考える上で、多くのヒントを含んでいる。
英国留学
若き東郷はいくつかの貴重な体験をする。1863(文久3)年に行われた薩英戦争は、とりわけその後の東郷の生き方に大きな影響を与えた。
それまで攘夷派だった薩摩藩はイギリスとの軍事力の差に愕然とし、開国派に転じる。そして、英国との結びつきを深め、海軍力を増強するとともに貿易にも精を出す。薩英戦争に加わった17歳の東郷は、その潮の変わり目を肌で感じ、将来は海軍の軍人になることを志す。
また、戊辰戦争においては三等士官として戦艦「春日」に乗り込み、榎本武揚率いる幕府側海軍と「箱館戦争」を戦っている。
世界情勢が激しく動いていることを知った東郷は、外国語の重要性を感じ、戊辰戦争の翌年(明治2年)、横浜で英語を学び始める。そして、明治4年にイギリスへ留学する。ちなみに、その直前、留学生として自分を選んで欲しい一心で大久保利通に直訴するが、大久保の答えは、「試験で優秀な成績を修めればよいではないか」とにべもなかった。同郷だからといって特別待遇はしない、と。さらにその時、大久保は東郷の饒舌を諫めている。当時、特に薩摩男子の間で口数の多い者は議者と呼ばれ、軽蔑されていた。それ以降、東郷は寡黙な人となる。蛇足ながら、東郷のイギリス留学を強く後押ししたのは西郷隆盛である。西郷は頼まれれば嫌とは言えず、結果的にそのことが後の日本の国難を救うことになったと言っていい。東郷のイギリス留学は苦渋に満ちたものだったが、得たものは少なくなかったからだ。
ところで、当時、日本政府はイギリスの海軍兵学校へ送り込もうとしたが、それは叶わず、テムズ航海訓練学校に入学することとなる。当初、人種差別に苦しめられた東郷だったが、徐々に周囲の評価を獲得していく。それは子供の頃に培った人間教育の賜と言っていいだろう。人格に優れ、勉強熱心な東郷に対し、イギリスの若者たちは一目おくようになる。東郷の成績表は今でも保存されているが、行儀、品行、言語、態度はいずれもVery good、さらに全学科がGoodだった。いかに東郷の人間性が高く評価されていたかわかる。もちろん、これは東郷にだけ備えられていたわけではない。当時の日本人の多くがそのような品格を備えていたのである。繰り返すが、その秘訣は幼年教育にあった。
留学中、東郷が強く印象を受けたものに、トラファルガー沖海戦史がある。1808年、ナポレオン率いるフランス・スペイン連合艦隊とネルソン提督率いるイギリス艦隊の一戦であるが、ネルソン提督は文字通り命を張ってイギリス艦隊を勝利に導き、勝利の報告を聞きながら47歳の生涯を閉じている。そのエピソードを知って以来、東郷にとっての英雄はネルソン提督になり、「自分もネルソン提督のようになりたい」一心であったという。そして、日本海海戦以降、東郷は本当に「東洋のネルソン」と世界から称賛されることとなった。ちなみに、同訓練学校は1968年、閉校しているが、多くの卒業生が世界の海運業で活躍している。歴代卒業生名簿の筆頭に東郷の名が挙げられているのを見ても、いかに東郷の評価が高いかがわかる。
さて、東郷の留学中、日本では西南戦争が始まり、兄・壮九郎が戦死している。西郷に恩を感じていた東郷は、帰国して薩軍の一員として戦いたかったが、周りの人たちに諫められ、翻意している。裏を返せば、西南戦争中、東郷がイギリス留学していたという事実は、日本にとって僥倖でもあったわけだ。約7年の留学を終え、東郷が帰国したのは明治11年だった。西南戦争を平定した明治新政府の中枢であった大久保利通が暗殺された8日後であった。東郷は32歳になっていた。
飽くなき研究心
日本の命運を決する日本海海戦において、なぜ東郷はあれほどの勝利を収めることができたのか。理由は数え切れないほどあるが、なかでも重要なことは、仮想敵艦隊の研究を怠らなかったことだ。
日本をはるかに凌駕する艦隊を率いて示威行動に来た清国艦隊の弱点を見抜いて日清戦争での豊島沖海戦に生かしているし、義和団事件の後、鎮圧のために日本、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、イタリア、ロシア、オーストラリアの8カ国が連合軍を編成していた際、軍艦を輸送船として活用しているロシア艦隊をつぶさに観察し、弱点を見抜いている。また、明治28年、東郷は海軍大学の校長に任ぜられるが、後にライバルとなるロシアのマカロフ中将が書いた「海軍戦術」を部下に翻訳させ、訳ができた端から何度も精読し、その戦術の長短所を分析し、その成果を実戦で生かしている。
日本海海戦において作戦を考案したのは秋山真之だが、秋山の才能を見抜き、作戦参謀として抜擢したのは海軍大臣の山本権兵衛である。秋山は、世に名高いT字戦法を含め、7段構えの戦法を考案するが、それは2列縦陣で来襲するロシア艦隊に対し、単縦陣で迎え撃つ日本の連合艦隊の能力を最大限に発揮できる戦法と考えられていた。が、しかし、大きなリスクの伴うものでもあった。
秋山は東郷と初めて会った日のことを回想している。戦艦三笠の甲板でのことだ。秋山が敬礼すると、東郷はまるで下級者であるかのように帽子をとって深々と頭を下げ、期待の言葉を述べた。それを聞いた秋山は恐縮すると同時に、この人のためなら命を捨てられる、と心に誓ったという。部下に対しても礼をもって接する明治の軍人の気風は、残念ながら昭和に至り、消えてしまう。
自らの危険を省みず、敵の壊滅作戦を選ぶ
本国から長い距離を航行してきたとはいえ、ロシアのバルチック艦隊は合計50隻を越える大艦隊。日本はこれを殲滅させなければいけない状況に追い込まれていた。なぜなら、対馬海峡にロシア艦隊の勢力を残したままであれば、それまでの陸海双方の戦績が水泡に帰すことになる。陸軍への兵站も切られることとなる。そうであれば、ロシアはけっして和平交渉のテーブルに着くことはなかったにちがいない。そして国力不足から、日本は戦争を継続できず、ロシアに敗北し、多大な侵害を受けたはずである。
そのような状況を東郷は理解していた。だからこそのT字戦法、通称「東郷ターン」を決行したのである。つまり、敵前で進路を塞ぐような形で大旋回をしたのであった。旋回が終わるまで、約16分、その間、敵に腹をさらす形となり、こちらから砲撃することはできない。海戦の常識にはないこの戦法を採用したのは、たとえ味方の艦隊の半分を失っても敵を殲滅するためであった。なぜなら、旋回が終わったあとは、敵に集中砲火を浴びせることができるからだ。
予想していたとはいえ、旋回中、連合艦隊の艦上は地獄絵図さながらの状態になった。肉片は飛び散り、死体が散乱した。しかし、敵の砲火に耐えた後、正確な公算射撃によって敵艦隊の大半を撃滅する、世界の海戦史上にない一方的な勝利を収めることができたのである。ちなみに、公算射撃とは決戦日の44日前にイギリスから伝授された射撃法で、「勘」に頼っていたロシアとは雲泥の差があった。
海戦中、東郷がずっと艦橋に立っていたことはつとに知られている。本来であれば、連合艦隊司令長官が負傷することは極力避けなければならない。だからこそ、秋山たちから長官室に戻ってほしいと何度も懇願されるが、東郷は砲弾が間断なく飛んでくるなか、平然と艦橋に立ち、無言のまま立っていた。現在、横須賀に保存されている三笠に乗船すれば、東郷が立っていた艦橋がどのようなものだったかリアルにわかる。じつに心もとない、狭い艦橋であった。そこで東郷は双眼鏡を片手に、悠然と我が身をさらしていたのである。
勇気の塊のような東郷であったが、同時に武士道精神の体現者でもあった。海に漂っている敵兵の救助に最善を尽くし、降伏した敵将の扱いは終始、紳士的であった。道を歩いていて、前方に雀がいれば、驚かさないよう別の道を行くというほど生き物への慈しみもあった。世界から「アドミラル・トーゴー」と賞賛された所以である。明治44年、英米を歴訪するが、その際の熱烈な歓迎ぶりは他に例を見ないほどであった。
東郷は連合艦隊の解散式で「勝って兜の緒をしめよ」と訓令を垂れたが、残念ながら、そのメッセージが昭和に生かされることはなかった。日本人の欠点である増長癖により、傲慢なふるまいをする日本人が増えることとなった。
ところで、日露戦争の決算書を読むと、当時の日本人が味わった辛酸がわかる。戦費は一般会計予算のなんと7倍強。戦費調達のため、国民の税負担はその10年前の2.5倍となり、国民は困窮を極めることとなる。イギリスのヴィッカース社が建造した三笠1隻で、なんと年間の国家予算の半分である。いかに当時の日本が総力戦でロシアとの戦いに臨んだか、わかるだろう。
歴史を公正に見ないということは、歪曲することと同じである。さまざまな歴史があって、われわれ日本の繁栄があるという事実をけっして忘れてはいけない。
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