近代国家建設の父
破壊と創造
破壊と創造では、どちらがより困難だろう。とりわけ、国家の建設においては。現今、開発途上国で起こる政変の報に接するたび、そう思う。革命などによって独立を勝ち取った歓喜はいったいいつまで続くのだろうかと。早晩、創造の苦しみを味わうことになるにちがいない。多くの日本人は失念しているが、倒幕の後の近代国家建設は塗炭の苦しみの連続であった。
たしかに破壊は多くの犠牲をともなうため、人々の心に残る。しかし、その後の創造の苦しみと比べれば、破壊に伴う困難はまだ些少といえる。
創造にともなう困難は理解されにくい。幕末の坂本龍馬らに心躍らせても、維新後の大久保利通や伊藤博文らに思いを寄せる人は少ない。重い荷物を背負って、地平線の彼方まで一歩一歩進むような、地道な仕事は人を魅了しないからだ。しかし、彼らがいたからこそ西欧列強の植民地にならなかったという事実を忘れてはいけない。
倒幕を推進した志士のほとんどは、戊辰戦争後の日本をどう創るか、ほとんどビジョンをもちあわせていなかった。多くは、天皇を中心とした武士と農民の国を創るという程度の構想しかなかったようだ。それはそれで美しい姿かもしれないが、当時の世界情勢を鑑みれば、絵空事でしかないのも事実だ。その点、西欧の近代科学を目の当たりにした大久保や伊藤は危機感をつのらせた。戊辰戦争は一里塚でしかなかったと思い至ったのだ。
日本最初の総理大臣である伊藤博文は、近代国家建設の父という位置づけで語られることが多いが(祖父は大久保?)、では伊藤博文とはどんな人物だったのか。
尊皇攘夷への目覚めと改心
伊藤は、1841(天保12)年、長州の束荷村(現・山口県光市)で生まれた。父は貧しい自作農だった。伊藤が5歳のとき、父が破産し、萩へ移り住むことになる。伊藤が生まれる前年はアヘン戦争が、12歳のときはペリーが浦賀に来航している。まさに激動の時代に産声をあげた。
伊藤弥右衛門の養子となり、足軽の身分を得た伊藤は、相模において警備の任務についているとき、来原良蔵という人物に見出される。来原は、伊藤の才覚を見抜いたのだ。1年後、萩へ帰る伊藤に、吉田松陰への紹介状を渡すのである。そして、伊藤は松下村塾に入門し、尊皇攘夷に目覚め、生涯の友・井上馨など数多くの有志と出会う。
18歳のとき、吉田松陰が処刑されるという衝撃的な事件が起こる。伊藤らは松陰の遺体を引き取りに行き、無残な姿に変わり果てた師に対面する。首は胴体から切り離され、おびただしい血にまみれ、転がっていた。せめて首を胴体に戻そうとしたが、それも幕吏に咎められた。伊藤ら松下村塾の門下生はいっそう尊皇攘夷を募らせることになる。
しかし、伊藤が他の過激な尊皇攘夷派と明らかに異なっていた点は、やみくもに外国人を打ち払うのではなく、〝敵〟の実情を自分の目で見ようとしたことである。
1863(文久3)年、井上馨ら4人とイギリスへ密航するのである。その地で科学技術や政治体制における彼我の差を目の当たりにして、潔く攘夷を捨てる。翌年、下関海峡を航行する外国艦隊を砲撃した長州藩に対し、英仏蘭米の4カ国連合艦隊が下関を砲撃する事件の後始末に、伊藤は命がけで藩を説得し、講和条約をまとめる。その後、伊藤は、「欧米との無駄な摩擦を避け、徐々に国力を整えて漸進的な対外膨張を目指す」という外交路線を貫徹することになるが、その発端はイギリスへの密航にあった。
元来、人間を信じる楽天性をもっていた伊藤は、外国人ともすぐ親しくなれるという〝特技〟があった。後に日本の対外政策に重要な役割を果たすことになるアーネスト・サトウ(イギリス公使館通訳生)と親しくなったのもこの頃である。
幕府の長州征伐の後、幕府に恭順しようとした藩に対し、高杉晋作が巧山寺で挙兵したことは有名なエピソードだが、そのときまっさきに駆けつけたのが伊藤だった。それほどまでに激烈な尊皇攘夷だったが、現実を知るや、一転してプラグマティストになったという点に彼の真骨頂がある。それを〝変わり身が早い〟ととるのは早計だろう。その柔軟さが、伊藤をして大仕事の数々をなさしめたのである。
また、伊藤は英語や外交上の慣行を重視し、ほぼ1年でそれらの基本をマスターしている。そのうえで、明治天皇の西洋人アレルギーを弱めるため、英仏蘭3外国人の天皇への謁見を実現させるなど、着実に西洋理解への布石をうっている。そういうことのひとつひとつが後の外交にどれほど生かされることになるか、当時の日本の政治家で理解している人は少なかったようだ。それまで、長州人は、関ヶ原の恨みを結束の原動力にしていたところもあったが、伊藤は矮小な藩意識を越えていた。ただ、長州再征の前、イギリスに助力を申し出ようと主張し、木戸にたしなめられるなど、当時の伊藤の世界観はまだ甘かったと言わざるをえない。
26歳で兵庫県知事
慶応四年、伊藤は26歳の若さで兵庫県知事に任命される。兵庫には神戸港があり、外国人への対応や紛争処理に秀でていた伊藤にとって、まさにうってつけの役職だった。
ある日、神戸港警備の徳島藩士をアメリカ人水夫が刺殺するという事件が起こる。しかし、水夫に言い渡された判決は、わずか禁固1年。そのとき、伊藤の胸中に、不平等条約改正への情熱がわき起こる。同時に、そのためには国力の増強が必要だというバランスのとれた認識をもつに至る。
明治初期、国内には旧幕府や諸藩の発行した各種の通貨、新政府が発行した不換紙幣が混在し、物価は激しく乱高下していた。伊藤は、理財に関する諸法令などを調査するため渡米し、アメリカの国債償却法や紙幣条例などを研究し、さらに合衆国憲法の制定過程も学んでいる。
当時、新政府は廃藩置県に取り組んでいた。明治維新は武士の手によってなされたものだが、廃藩置県は維新に功績のあった士族から身分を剥奪するというものでもあった。この断行によって一気に200万人以上もの武士が〝失業〟したと言われるが、その〝言い出しっぺ〟の一人が伊藤でもある。伊藤は、明治元年、誰よりも早く廃藩論を建白している。
その直後の明治4年11月、岩倉具視を全権代表とする岩倉使節団が不平等条約改正を掲げてアメリカへ向けて出発。伊藤はこの一団への参加をきっかけに急速に大久保に接近していく。それまで伊藤の後ろ盾は同じ長州藩の木戸だったが、洋行途中での木戸の態度に失望した伊藤は、これからの国家建設は大久保のもとで進められるべきだと判断したようだ。
征韓論争
明治6年、ヨーロッパを視察中の岩倉使節団に穏やかならぬ一報が届く。西郷隆盛らの留守政府が閣議で「朝鮮国に全権使節を派遣し、開国に応じない場合は朝鮮を征伐する」と主張し、大方の賛成を得ているという。欧米の進んだ科学技術を目の当たりにしていた一行にとって、その時期に他国と戦争をするなど論外だった。
急ぎ、大久保と木戸が帰国して征韓論派の決定を一時留保させ、岩倉の帰国によって一気に征韓論をつぶす。それによって西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣は参議を辞職。西郷は陸軍大将のまま鹿児島へ帰ってしまい、新政府最大の危機が訪れる。その後、佐賀の乱にはじまり、西南戦争に至るまでのいくつもの内戦は、征韓派ら不平士族と明治新政府の戦いであったが、伊藤は現場で鎮圧に当たった大久保を補佐し、特に西南戦争の際は大阪に設置した大本営で戦争指揮の役割を担うなど、新政府の中で重要な地歩を固めることとなる。
明治11年、大久保が暗殺された後、内務卿に就任し、政府の中心に躍り出る。
西南戦争後、伊藤とともに政府の中心を担っていた大隈重信は、財源不足を補うため、外債5000万円を募ろうと画策するが、経済再建に失敗すれば列強に担保をとられ、植民地化されるおそれがあると伊藤が主張して中止。この頃から大隈との確執が表面化し、明治14年の政変で大隈を政府から追放して以降、さらに伊藤の権限は強大になり、多方面に驚異的な能力を発揮することとなる。
伊藤の立憲政体構想
『総理の値打ち』(福田和也著・文藝春秋)という本がある。伊藤以下、小泉純一郎まで、歴代の総理大臣を百点満点で評価するというものである。それによると、歴代1位は伊藤で91点。それが正しいかどうかは別として、伊藤がとてつもなく大きな仕事をいくつもやってのけたことは揺るぎない事実である。なかでも特筆すべきは、立憲政体の仕組みを作り、自ら4度組閣したこと、大日本帝国憲法の制定を主導したこと、政体における天皇のポジションなど宮中改革を推し進めたこと、そして陸奥宗光外相を用いて不平等条約の改正に成功したことなどであろう。それ以外にも伊藤が関わった事業は驚くほどたくさんあり、ほんとうに一人の人間によってこれほどのことがなされたのかと感嘆するばかりである。
伊藤の基本的な立憲政体構想は、「日本にはまだ自立した個人が育っていないから、日本の状況を踏まえた段階的な整備が必要」という、プラグマティストの考え方であり、性急な制定を急ぐ大隈を牽制していた。その際、参考にしたのは、議会と内閣が密接に結びつくイギリス型の議院内閣制ではなく、国王と内閣が結びつくプロシア型の政体であった。つまり、国民が未熟な状態でイギリス型を採用すれば、収拾がつかなくなるおそれがあり、列強につけいる隙を与えるという考え方だった。
当時、伊藤を補佐したのが、列強先進国の憲法や政体に知悉していた井上毅であった。「国会開設は維新創業よりも難なるべし」とは伊藤の言だが、事実、さまざまな困難をクリアし、明治18年、それまでの太政官制を廃して内閣制度を創設、伊藤が初代総理大臣に就任する。
内閣制度の次は憲法制定だ。伊藤は、「日本にふさわしい憲法をつくる」という意志をもっていた。そのため、ヨーロッパの法や秩序を単に翻訳して日本に適用するだけでは日本の政治の実態に合った憲法にはならないと思っていた。これは、西欧という異文化への深い洞察力があったからにほかならない。伊藤以外の多くは憲法制定を安易に考えていたが、伊藤は憲法の難しさと価値がわかっていたのである。
そして、明治22年。大日本帝国憲法を発布し、翌年、初めて帝国議会が開かれた。議会は何度も中断の危機を迎えるが、そのことが不平等条約改正に不利益をもたらすとみた伊藤は、明治天皇の力を借りながら、その都度危機を救っている。
伊藤の人となり
伊藤博文という人物は、調べれば調べるほど面白い。若い時分は高杉の決起にたった一人、追随したほどの熱血漢であった。また、成長するに従って世の中の情勢を把握し、現実的かつ柔軟に対応する〝穏健派〟へと変貌し、盟友・側近に対してはかなり寛大でもあった。
一方、明治天皇からの信任は、驚異的といっていいほど厚く、伊藤が何か事を成し遂げるたびに天皇は莫大な下賜を伊藤に施し、結果的に現在の金額に換算して数十億円もの財産を遺すに至った。明治31年、56歳のとき遺言を書くが、その大半は財産分与に関する内容であった。
遺言で財産分与について書かなければならなかった理由が他にもある。あまりにも奔放な女性関係の結果、多くの子がいたからだ。伊藤は盟友・井上馨の子を養子として迎えているが、梅子夫人以外にも住み込みの女性や芸者などとの子がおり、うち最初の子は梅子夫人がひきとって生活の面倒をみている。さらに遺言により、他の子供にも高等教育を施し、それぞれ有為の人物になったといわれている。妻以外の子らを交えて家族の記念撮影もしている。時代がおおらかと言おうか、梅子夫人の度量が大きいと言おうか、現代では考えられないことである。
伊藤の政治的後継者の一人、西園寺公望は秘書にこう語っていたという。
「伊藤公はじめ自分たちは〝東洋の盟主たる日本〟とか〝亜細亜モンロー主義〟とか、そんな狭い気持ちではなく、むしろ〝世界の日本〟という点に着眼してきた」(『人物で読む近代日本外交史』(吉川弘文館)
また、岩倉使節団一行の一員だった津田梅子(津田塾大学創始者)は帰国後、伊藤家の家庭教師役を務めていたが、伊藤が暗殺されたあと、次のように回想している。
「生も死も自分(伊藤)にとっては同じようなものだ。これから先、何が起こるかを怖れたことは一度もないといった言い方で、彼は自分を宗教心のない人間だと決めつけていたが、彼はわけのわからない力といったものを信じていた。彼の多くの言動には、しばしば信仰と名づけたくなるようなそうした途方もない神懸かり的なものがあった」(『伊藤博文 近代日本を創った男』(伊藤之雄・講談社)
明治38年、初代韓国総監に就任。当時の韓国の状況を鑑み、工業や高等教育ではなく、農業や初等教育の普及を目指す。
そして、明治42年、伊藤はハルビンでソ連のココーフツォフ蔵相と会談した後、ハルビン駅で韓国人の安重根に暗殺される。韓国の将来を憂え、韓国統治に尽力した伊藤だったが、韓国の反日感情を一身に背負ってあの世へ旅立ってしまった。日比谷公園で国葬されるが、伊藤を失った日本は、以後、徐々に外交のバランスを失っていく。
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