偉大な日本人列伝
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紺碧の将

台湾のために尽くした土木技師

第16回 八田與一

 

台湾は世界一の親日国家?

 

「世界で最も親日国家は台湾」とはよく聞く言葉だ。親日国家といえば、トルコ、インドネシア、インド、タイ、ブラジル、フィンランド、メキシコ、パラオ諸島、ポーランド、トーゴなど、いくつもあげられるが、台湾が特殊であるのは、かつて韓国や北朝鮮と同じように日本に領有されていた歴史をもつにもかかわらず、という点だ。韓国は日本を貶めるネタを世界中にばらまいているが、一方で台湾にはいまだに「日本的精神」を美徳とみなしている人が多い。台北の地下鉄が清潔なのも、日本統治時代の名残だと評価する人が少なくない。東日本大震災の際にも、多額の義捐金を日本に送ってくれた。この韓国と台湾の両極端な反応は、いったいなにに由来するものなのだろうか。

 ひとえに教育であると思う。台湾では日本統治時代の正の遺産を子供たちに伝え、韓国では台湾に勝る恩恵を受けていながらそれらは封印し、負の遺産ばかりに捏造を加えて反日教育を徹底している。政権にとって、反日は効果抜群のカードである。

 台湾の歴史教科書「認識台湾 歴史篇」に詳しく紹介されている日本人がいる。八田與一だ。彼は、日本が台湾を統治していた時代、南部の嘉南平原に烏山頭ダムをつくり、不毛の大地を台湾最大の穀倉地帯に変えた立役者である。

 この偉人のことを知る日本人は多くないが、台湾では今でも慕われ、銅像の前で毎年墓前祭が行われているという。

 

台湾統治者と八田與一の肝っ玉

 

 八田は、1886(明治19)年、石川県河北郡花園村(現金沢市今町)の豪農の五男として生まれた。幼い頃から成績優秀で、第四高等学校大学では西田幾多郎の、東京帝大工科大学土木工学科では古市公威の薫陶をうける機会を得た。

 西田は「現在の課題を持たない者は哲学者ではない」を持論としていたが、平たくいえば、社会に役立つ仕事をしなさいということだ。古市はパリで苦学中、寝食を惜しんで勉学に勤しみ、「自分が一時間休めば、日本が一時間遅れる」と言ったことで知られている。そういった人と交わることによって、八田にも「学問は実際に生かさなければ観念遊戯に堕してしまう」という認識が育ったはずだ。

 1910(明治43)年、八田は初めて台湾に降り立った。当時、日本は日清戦争で台湾を、日露戦争で南樺太を獲得し、八田が卒業した年には韓国も併合している。

 領土を広げてはいたが、日本は植民地経営に苦心していた。欧米列強のように植民地からの収奪を第一義としていなかった日本は、台湾や韓国でのインフラ整備や教育振興に多くの労力と予算をつぎ込んだからだ。

 特に台湾は、統治のうえで数々の問題があった。土匪(盗賊集団)やだれからの支配も認めないとしていた原住民の抵抗にくわえ、アヘン吸引の悪弊、マラリア、コレラ、ペスト、アメーバ赤痢などの伝染病や風土病の蔓延など、解決すべき課題が山積していた。

 台湾総督に就いた人物は樺山資紀、桂太郎、乃木希典、児玉源太郎、佐久間左馬太、安東貞美、明石元二郎ら颯爽たる面々で、まさしく日本のエース級ばかりだ。後藤新平や新渡戸稲造も台湾に赴任している。いかに当時の日本が台湾の開発に力を入れていたかわかる。統治下に入った台湾を日本以上に豊かな土地にしようと志したのだ。そして、初代民政長官・後藤新平をはじめ、衛生環境の改善を喫緊の課題とし、国を挙げて取り組んだ。

 伝染病をなくすには、衛生思想の普及、病院の新設の他、上下水道の整備による汚染されていない飲料水の確保、汚水処理のための下水道整備など、多岐にわたる対策が必要とされたが、特に飲み水は重要だ。南部地方の状況は劣悪で、飲み水を得るために4、5時間もかけて遠地へ歩いて行かなければならなかった。

 そこで、台湾総督府が目をつけたのが嘉南平原である。南北92キロ、東西32キロにおよぶ台湾最大の平原で、10万ヘクタール近い大地が活用されていなかった。それもそのはずで、5月から9月までの降水期は、洪水を引き起こして河川はあふれ、田畑は侵食され、住宅は浸水にあった。反対に秋冬の乾期は一滴も雨が降らない日が続いた。治水がうまくできれば、衛生環境の改善にとどまらず、不毛の地を豊かな穀倉地帯へと変えることができる。

 ある日、総督府によばれた八田は、重要なミッションを与えられる。ひとつは、水力発電のための水源を見つけること。もうひとつは、急水渓に灌漑用ダムを造って灌漑することが可能かどうかを調査することだった。

 精力的に現地を回り、地形や地質をくまなく調べた八田は、時の民政長官・下村海南に巨大なダム建設の計画を提出する。官田渓の水をせき止め、さらに隧道をつくって曽文渓から水を引き込んで貯水するというもの。八田も後藤新平同様、「大風呂敷」と揶揄された。現在の貨幣価値で5000億円もかかる大工事であり、難易度がきわめて高い場所に、日本はおろか、東洋ではかつて行われなかったセミ・ハイドロリックフィル工法で堰堤を造るというのだ(セミ・ハイドロリックフィル工法とは当時のダム先進国アメリカに数例あるのみで、要するに土と石だけで上堰堤を造り、水の力によって築くという工法)。

 並みの国であれば、検討だにしないだろう。どの国も自国の運営だけで精いっぱいだ。しかし、当時の日本はそれを決断した。しかも、経験の浅い、32歳の若者に大仕事を託したのである。工事途中、関東大震災や昭和恐慌にも直面している。それでも、大工事は完遂した。当時の為政者たち、そして、責任を一身にうけて挑んだ八田の胆力には驚くばかりである。

 

技術屋にして哲学者、為政者

 

 つねづね、八田はこう語っていた。

「官位や地位のために仕事をするのではなく、人類のためになる仕事をし、後世の人々に恩恵をもたらすような仕事をしたい。それができれば、一介の技術屋で終わっても十分だ」

 八田與一という人物、調べるほどに魅力が伝わってくる。それが端的にわかるのが、3年輪作灌漑という八田独特の考え方だ。

 どの程度の規模のダムにするか検討していた時のことだ。ある技師が「15万甲すべてに灌漑する水源がない以上、そこまでの規模にする必要はないと思うが」とただしたのに対し、八田が次のような持論を述べる(甲とは台湾で使用される面積の単位であり、一甲は約0.97ヘクタール)。

「たしかに計画の水源から毎年給水できる面積は全体の半分足らずでしょう。その土地は耕作できるようになるでしょうが、他の土地はこれまで通り耕作できず、貧しさから脱却することはできません。これは将来の台湾にとって、けっして良いことではありません。嘉南平原を3つに分け、1年ごとに給水すれば、嘉南の農民のすべてが平等に水の恩恵にあずかります」

 とかく技術系の人は目の前の大事業を完遂できるかどうかに意識を奪われてしまいがちだが、八田は若くしてそのような思想をもっていたのだ。

 いよいよ1920(大正9)年、工事が開始された。その後10年間、八田は難工事に取り組むことになる。

 その間の仕事ぶりは、植民地を支配する側のイメージとかけ離れている。支配者(日本人)と被支配者(台湾人)の区別をしなかったし、朝5時半頃に本部を出て、夜は1時過ぎまで机に向かっていた。睡眠時間は3、4時間だったという。自分の報酬のことではなく、いつも労働者の待遇を気にかけていた。

 また、八田は大の子供好きで、1917(大正6)年、31歳の時、米村外代樹と結婚し、2男6女をもうけている。

 

数々の困難を乗り越えて

 

 もちろん、すべてが順風満帆に進んだわけではない。セミ・ハイドロリックフィル工法に関して、米国人の専門家・ジェル・ジャスティンとの論争もあった。実績のなかった八田だが、綿密な資料を作成し、総督府を説得することに成功した。

 また、工事現場で大爆発が起こり、多くの労働者が亡くなったことで八田は窮地に陥った。批判が殺到し、一時は八田自身も工事を続ける意欲を失った。しかし、そんな八田を救ったのはなんと犠牲者の家族たちだった。「工事を続けてほしい」という嘆願がなされたのだ。部下たちから絶大な信頼を受けていたことがこの難局を乗り越える要因になった。

 1923(大正12)年の関東大震災の後は、工事予算の工面がたたず、長期的な遅滞を余儀なくされた。八田にとってなによりつらかったのは、多くの労働者の整理をしなければならなかったことだ。

 このときに示した八田の決断に彼の思想がよく現れている。優秀な人材を残すべきだとの助言を受けたが、八田はこう答えている。

「優秀な人間は新しい仕事が見つかるはずだ。だから、私はそうではない人たちを残す。それに、大きな仕事は少数の優秀な人間だけではできない。むしろ、平凡な多数が必要だ」

 八田が人前で泣いたのはそのときが最初で最後だったという。彼は解雇した人たちの就職口を見つけ、「また予算がついたら必ず戻ってもらえるようにするから」と約束し、実際にそれを実行した。

 八田の人間観には独特のものがある。カバン持ちに前科者を使っていたというのもよく知られたエピソードらしい。八田が単なる技術者ではないという所以は、そのあたりにも端を発しているようだ。

 

東洋一のダムが地域を潤す

 

 1930(昭和5)年、莫大な総工費を要した烏山頭ダムは完成した。このダムによって1億6000万トンを超える水が渓谷に満ちあふれ、不毛の大地は台湾最大の穀倉地帯へ生まれ変わった。この水利設備全体が嘉南大圳と呼ばれている。ダム完成後、莫大な耕作物の収入、地価の上昇、観光客の増加による経済発展などによって、地域の人々の経済状況は一変した。セミ・ハイドロリックフィル工法を採用したことから、人造湖でありながらコンクリートの一片さえ見あたらない自然のままの湖は、上空から見ると緑色のサンゴのように見えることから、珊瑚潭という美称が与えられている。

 

八田與一の最期

 

 ダム完成の翌年、住民の申し出によって、八田の銅像がつくられることになった。当初、気乗りのしなかった八田だが、よくあるような、威厳に満ちた表情で高い台に立つ姿でなければ、という条件つきで銅像建設を許可した。作業ズボンに作業靴を履いた足を前に投げ出し、立てた右膝の上に肘をついて、右手は2本の指で頭髪をひねくりまわす姿は好感がもてる。この銅像は戦時中の国家総動員法に基づく金属類の回収令や、戦後、蒋介石時代に日本の残した建築物や顕彰碑が破壊された際も地元の有志によって守られ、後にダムを見下ろす元の場所に設置されるという特異な経緯をもつ。

 1942(昭和17)年5月、八田は帰らぬ人となった。1000名を超える専門技術者を載せた大洋丸が五島列島沖で米国の潜水艦に撃沈され、船と運命をともにしたのだ。享年56歳だった。

 さらに痛ましいことが続いた。夫の死の3年後、妻・外代樹が烏山頭ダムの放水口に身を投げたのである。その日は、くしくも嘉南大圳が起工された記念日だった。

 

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