才能とは、それを宿す人のためである以上に、他人の才能を享受する圧倒的多数のために存在するものなのだ
映画にもなった直木賞作品『小さいおうち』の作者、中島京子さんの言葉だ。カズオ・イシグロ氏の短編小説『夜想曲集』の解説で、作品について感想を述べた後にこう締めくくっていた。
実際はこうだ。
「才能は誰にでも宿るものじゃない。なるほど。でも、それがいったいなんだというのか。
才能とは、それを宿す人のためである以上に、他人の才能を享受する圧倒的多数のために存在するものなのだ。そこに音楽があり、それは誰かによって作られ奏でられる。才能に見放された男にも、サラ・ボーンの8分間の至福は与えられるのである。音楽万歳!」
と、こんな具合に、中島さんは「才能」を依怙贔屓しない。
むしろ才能は、万人のために用意された珍味のようなもので、それを料理する人も食べる人もそれぞれ思い思いに味わえるという。
珍味を手に入れた料理人は、それに気付けば腕を磨くだろうし、好き嫌いはあっても珍味料理に舌鼓を打つ人はたくさんいる。たとえは変だが、そうことだ。
つまり、持つ人はそれを生かして自らが生かされ、持たざる者はそれに触れて生かされながも結果的にはそれを生かしているということになるだろうか。
このときの「それ」は、珍味であり才能である。
この小説の副題が「音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」ということで音楽がテーマではあるものの、5編には「才能」という主題が通底する。
それぞれの物語に登場する「才能」の持ち主は、ときに喜びを味わい、ときに翻弄される。
順風満帆とは言い難い人生だが、それでも彼らの才能は人の心に何かを残す。
現実の世界もそう大して変わらないだろう。
そして、残された何かが起爆剤となって、眠っていた才能を開花させる人はたしかにいる。
だとしたら、才能の持ち主が特別なのじゃなくて、才能を特別なものにしていく人が特別なんじゃないか。
圧倒的多数の他者はもちろん、持ち主でさえも。
才能はだれにでも宿るものじゃないかもしれない。
でも、他人の才能を享受することは万人に開かれた扉でもある。
それを至福とするのは、だれにでも許されているのだ。
今回は「柄杓星」を紹介。 天の中心を示すかのように、北の空でひときわ大きく光輝く北極星。天空のすべての星を支配し、宇宙を司る天帝として不動に鎮座するその星の側で、帝を守るように周囲を巡っている北斗七星。この星の和名が「柄杓星(ひしゃくぼし)」です。続きは……。
(210815 第740回)