この五体が庭だとすれば、その庭師はおのれの意思だ
ボードゲームのオセロの由来でもある、シェイクスピアの悲劇『オセロ』。その中の悪党イアーゴーのセリフである。オセロの旗手であるイアーゴーは、その主オセロと副官キャシオー、ヴェニスの紳士ロダリーゴーをまんまと騙すのだが、その折々に語る言葉が妙に納得させられる。第1幕第3場の終盤で、イアーゴーがロダリーゴーに説いたこの言葉もしかり。
真実を語るのは善人ばかりではない。
むしろ、悪党こそ、この世の理を語るのかもしれない。
どこか、親鸞聖人の言う「悪人なほ往生す。いかにいはんや善人をや」に通じるような気もするのだが……。
ロダリーゴーがオセロの妻デズデモーナに恋心を抱いているのを知った悪党イアーゴーは、仲をとりもってやると言って銭を騙しとり、ロダリーゴーが、この気持ちをどう始末すればいいのかと自制心のきかない性格を嘆くのを見て、こんなセリフを吐く。
「なにをバカなことを言ってんだ。
こうなるも、ああなるも、人間の性格なんてものは、おのれしだいでどうにでもなる。
この五体が庭だとすれば、それを手入れするのは庭師である意思(精神)なんだよ。
雑草だらけにしようと、綺麗な花を咲かせようと、種を撒くのも手入れするもしないも自分の勝手。みんなおのれの意思次第ってもんさ」
古今東西、本当の悪党は頭がいい。
頭が良すぎて、凡人の見落としにすぐさま気付く。
その頭の良さを、もっといいことに使えばいいのに…と思うのも凡人?
それはともかく、人間という生き物は、生まれながら庭もちの庭師であるということだ。
隣の美しい庭を見て嘆く前に、己の庭をなんとかすればいい。
とりどりの好きな花で埋め尽くすもいい。
一種類だけと決めるのもいい。
花はなくとも美しい緑で埋めるというのもあり。
最初は未熟な庭師だとしても、自分好みの庭を作ろうと思えば、知らない知識や技術を取得しようと学ぶはず。
その道のプロに学ぶもよし、独学で腕を磨くもよし。
それすらも「おのれの意思」が決めること。
他人の庭は勝手にいじれないが、自分の庭は自分しだいでどうにでもなる。
この世は庭師の集まりで、とりどりの庭でできている。
広い庭、狭い庭、美しい庭、荒れた庭……。
さて、あなたはどんな庭がお好みですか?
今回は「色なき風」を紹介。
―― 吹き来れば身にもしみける秋風を 色なきものと思ひけるかな(紀友則『古今六帖』)続きは……。
(211114 第761回)