認印を押してもらわないと何かがすまないようなことには、大事なことはひそんでいない
数学者の岡潔の持論をひとつ。実際には、平凡社発行の『岡潔 数学を志す人に』に挟まれていた、二つ折りの栞に書かれていた松岡正剛氏の簡易な書評から引っ張ってきた。本文の「天と地」の項で、岡潔が「ある」についての考察をした内容の一部の省略である。
岡潔によれば、「ある」には2通りのパターンがあるらしい。
ひとつは、想像上の「ある」。
もうひとつは、現実の「ある」。
想像上の「ある」は、たとえば目の前に花がなくとも頭に強く描けば、それはもう、その人にとってはすでにあるという「ある」。
実際は存在しなくとも、存在感としての「ある」だ。
たとえば梅干しやレモンを想像したら、唾液が出るように、あたかも口にしたかのように脳が「ある」ことを実感させるあれ。
一方、現実の「ある」は、実際に存在するけれども、存在感となると疑問がもたげてくるような不確かな存在。
たとえば肉体であったり、お金もそうかもしれない。
あるのはあるけれど、「失ったらどうしよう」とか「いつまであるのか?」と、「ある」ことに不安や疑問を抱き、それを強く打ち消して「ある」と思い込もうとする「ある」。
カンタンに言えば、想像上にしろ、現実にしろ、「ある」ことを信じるか信じないか、ということ。
疑いなく信じられたら、それはもう「ある」のだし、
反対に、目の前にあるにもかかわらず、疑い、それを強く否定して「ある」と思い込もうとするものは「ない」に等しい。
岡潔は、人と人との「つながり」もこれに当てはまるという。
「いちいち文字にして書き表して、それを認め印まで押してもらわなければ承知できない、そのようにしてはじめて安心するという風なつながりでは、つながっているということの実感は出てきません」
虚偽が氾濫する情報化社会の現代で、つながりを強く意識するのもわかる気がする。
信じたいのに何を信じていいのかわからない。
そう思えば思うほど、目に見える「つながり印」にすがってしまう。
でも、それは一旦封印して、まずは「いまここにある」ものを信じよう。
わたしがいて、あなたがいる。
わたしの生命とあなたの生命。
生命力が計り知れないことは、「満評」MVPに輝いた米大リーグの大谷翔平選手が証明してくれたではないか。
生命力を信じるか信じないかは、自分次第。
大谷翔平君だけじゃない、わたしの中にもあなたの中にも、すでにその力は「ある」のですよ。
そしてその「ある」はすでに、あるもの同士つながり響き合っているのだ。
今回は「色なき風」を紹介。
―― 吹き来れば身にもしみける秋風を 色なきものと思ひけるかな(紀友則『古今六帖』)続きは……。
(211120 第762回)