『教える』ということは、どれだけ相手をその気にさせるかということ
脚本家、劇作家の高橋玄洋氏の言葉である。30年ほど前に所沢の幼稚園の記念誌で、その幼稚園に併設する自然観察園について当時の理事長と語っていたものだ。教育ということを考えたとき、最も重要なカギとなるのが「感動」だと、玄洋さんは語っていた。
あんな風になりたい。
憧れのあの人のようになりたい。
将来の夢は〇〇。
幼い頃は、大抵の子供たちが夢を抱く。
それも「かっこいい」や「かわいい」という理由だけで。
憧れの人のようになりたいと、見様見真似で真似をする。
どうやったら憧れの人に近づけるかと、子供ながらに頭を働かせながら。
「学ぶ」は「真似ぶ」というように、生来真似るのが好きな幼い子供たちは、誰もが学ぶ天才なのだ。
そのまま素直に、真っ直ぐに突き進めばいいのだけれど、成長の過程でさまざまな弊害にあい、彼らは自ら学ぶことをやめてしまう。
その結果、夢は夢で終わってしまうのだ。
彼らから学ぶことや夢を奪ったのは、おそらく大人の身勝手な教育だろう。
当の大人たちもまた、競争社会の教育によって夢を奪われた被害者なのかもしれないけれど。
競争社会は、目の前に輝く未来を差し出しながらも、実はそれは幻なのだと子供たちから感動を奪い、夢から目を冷まさせる。
感動が失われると、人は自ら学ぶ意欲をも失ってゆくというのに。
身に覚えはないだろうか。
学校で、先生が語ってくれた、教科書とは関係ない話が面白かったこと。
本来の授業とは関係ない、横道にそれた授業の方が楽しかったこと。
そこから好きになった教科もあっただろう。
「『教える』ということは、相手をどれだけその気にさせるかということなんですね。大切なのは、相手とどこまで本気でぶつかり合えるか。教える側はどんな状況の中でも子供のことだけを考え、思い、そして容赦なく教える。すると学ぶ側はそれを、理論を超えた感動として覚えていくのです。
自然を子供に提供することも、教育を感動に変えるひとつの在り方だと思います」
教育を感動に変える。
感動こそが、学ぶ力の原点だから。
教える側は、どれだけ感動を与えられるか。
そのためには教える側も感動しなければ。
教える側も学ぶ側も、共にワクワクするような体験をしよう。
そうすればきっと、心に太く頑丈な根が生え、強くしなやかに生長するにちがいない。
今回は「三つの花」を紹介。
美しいものを花に喩えるのが好きな日本人は、内に篭りがちな寒い冬でも美しい花を愛でたいと思ったのでしょう。凍りつくような寒い朝、大地を覆い尽くすようにキラキラと霜が降り立ちます。この霜が「三つの花」です。続きは……。
(220123 第774回)