読めない本は、読める本より大事なのかもしれない
随筆家の若松英輔氏の著書『言葉の贈り物』に、この言葉があった。といっても、彼の言葉ではない。彼が知人からもらった言葉だ。本好きな父親が、読める本だけじゃなく読めもしない本を大量に書い続けることを愚痴ったときに、それまで黙って聞いていた知人が、ふとこんなことを口にしたらしい。
星の王子さまの言葉を思いだす。
「大切なことは目に見えないんだよ」
ほんとうに大切なもの、重要なものは隠されている。そうやすやすと見つかったりはしない。
海賊たちが求める秘宝や絵画の中の暗号のように、大切なものは見つかることを恐れるかのごとく厳重に秘められているものだ。
だれでも身に憶えがあるだろう。
ほんとうに言いたいことは言えなかったり、ほんとうに伝えたいことは伝わらなかったり、ということが。
言葉にしたとたん、心のかけらが口の端からこぼれおちてしまったのではないかと思うほど、すべてが嘘っぽく聞こえてしまうということも。
だから、実が虚になることも、虚が実になることもある。
ところが、体はちがう。
どんなに言葉を繕ってみたところで、体は正直にすべてをさらけだす。
「ある年齢をすぎれば顔が名刺」と言われるゆえんだろう。
とりわけ人の行動は、言葉以上にその人の心の内を見せる。
若松氏のご尊父が、生前に読めない本を買い込んでいたのも心の現れにちがいない。
「人は、いつか読みたいと願いながら読むことができない本からも影響を受ける。そこに記されている内容からではない。その存在からである」と、若松氏。
読めない本との間に続けている無言の対話は、会いたい、話したいと願う人への想いにも通じ、ふさわしい時機の到来を待っているようなものだ、と氏は言葉をつぐ。
憧れ、羨望、崇敬、希い願う心……。
かんたんに手に入らないからこそ、人は想い続けるという一途さをおぼえる。
その一途な姿が、「想い」という見えない糸を紡いでゆくのだろう。
今回は「翠雨」を紹介。
「翠雨(すいう)」とは、若葉どきに降る雨のこと。若葉雨や緑雨、青雨、青葉雨ともいい、まるで青々と萌えさかる若葉の熱をさますかのような雨の言葉です。続きは……。
(220516 第794回)