大切なのは目的地ではない。現に歩いているその歩き方である
なんど取り上げただろう。小林秀雄。これも彼の言葉である。『モオツァルト』の評論にあった。モーツァルトの人生の歩み方を考察している中で出てきた言葉だ。評論家の私的な見解だろうけれど、胸にしまっておくのも悪くはない。
便利な世の中になって、道に迷うことが少なくなったと感じる人もいるだろう。
このときの「道」とは、物理的な、実際に歩く「道路」のことだ。
初めての場所も、手元のスマートフォンで地図を開けば、丁寧に目的地まで案内してくれるから、デジタル慣れした人にはこれほど便利なツールはない。(アナログ人間には逆に不便なような気が…)
だが、いつも案内してもらってばかりでは、動物的勘は確実にニブる。
かつてのように、紙の地図を片手に、あっちでもないこっちでもないと迷いながら歩くほうが、初めての道でもなかなか忘れないものだ。
わざと知らない道に入り込んで、おもしろい店を見つけたり、新しい発見があるのも楽しい。
デジタル慣れした人には、アナログ地図での旅をおすすめする。
さらに言えば、目的地を定めない旅を。
きっと得るものは大きいだろう。
モーツァルトのように。
小林秀雄が言うには、モーツァルトには目的地などなかったらしい。
それはそうだ。幼い頃から父親に連れられ、ヨーロッパ各地を点々とし、言われるがまま演奏を続けていたのだから。
彼にとっては、着いた場所が目的地。
だから小林は、モーツァルトを「歩き方の達人」と呼ぶ。
いく先々で所望される音楽を即行で演奏しなければならないモーツァルトにとって、当代のあらゆる音楽的手法をマスターしていることは最低限のたしなみだった。
その場の雰囲気や聴衆の好みを嗅ぎ分け、すぐさま音楽で彼らを楽しませなければならなかったからだ。
手持ちのカードが少なければ、それはできない。
繰り出す技を増やし、さらに磨きをかけなければ、聴衆はすぐに飽きる。
モーツァルトは、あらゆる音楽的手法をマスターするために、他の音楽家たちの真似をした。
模倣である。
「どんな音楽も真似できる」と手紙に残しているほど、彼はとことん模倣したという。
その多彩な技術によって、いつでもどこでも、アレンジをきかせなげら、独創的な音楽を披露できたのである。
これが、モーツアルトの歩き方だ、と小林は言う。
「モオツァルトは、目的地なぞ定めない。歩き方が目的地を作り出した」
時にはスマホを放り出して、知らない土地を歩いてみてはどうか。
それを繰り返していれば「歩き方」もわかってくる。
鼻も効いて、道に迷うこともなくなるだろう。
今回は「心葉」を紹介。
心葉とは、「心」あるいは「心ばえ」のこと。あふれる想いや感情のことです。そのむかし、人は鳥のように音をつなげた歌で意思の疎通をしていたといいます。続きは……。
(220725 第804回)