伝統とは生命の継承であって、古いもののくりかえしではない
陶芸家の加藤唐九郎の言葉だそうだ。染色家の志村ふくみさんの著書『語りかける花』で見つけた。加藤唐九郎は1960年の「永仁の壺事件」の当事者。桃山時代の陶芸の研究や再現をするうちに、古瀬戸の贋作を行うようになったという。事件後、権威・役職すべてから手を引き、作陶に専念したというから、陶芸一筋の愚直な人だったのだろう。
卵から孵った雛鳥は、最初に目にしたものを親だとおもう。
「刷り込み」というこの現象は、おそらく生き物の習性なのだろう。親とまでは思わなくても、人の子も、幼いうちは周りの真似をしながら生きる術を覚えていく。
生きるために、真似ぶ(学ぶ)のだ。
元はだれの言葉なのか、「すべての創造は模倣からはじまる」とよく言われるように、名だたる芸術家のほとんどは模倣を当たり前にしている。
ゴッホもピカソも、たしか北斎もそうだった。
芸術家だけではない、技術者、研究者、スポーツ選手、芸能人、職人、商人、どんな職業であっても、最初はだれかの真似をする。
そうやって技術を磨き、知恵をつけて、やっと工夫が生まれるのだ。
「1+1=3」の原理である。
「人間は父にも似ているが、母にも似ている。しかし父でもなく、母でもない。新しい生命である。新しい生命はその時代に成長し、闘って時代とともに進展してゆく力をもっている。伝統は日々新しい闘いをつづけて、日々成長するのである」
それゆえ、伝統とは生命の継承であって、古いもののくりかえしではないのだ、と加藤唐九郎はいう。
ただ古いもののくりかえしなら、それは因習にすぎないと。
加藤唐九郎の言を借りれば、「伝統は生命のバトンリレー」となる。
今を生きるすべての生命は「模倣の結晶」ともいえる。
古きを温めて新しきを知る。
いつの時代も、先人の知恵は新しいものを産む。
ちなみに加藤唐九郎は事件後、一部の知識層からの評価が高まったらしい。
山田風太郎は、「重要文化財級の作品を作れる男として加藤の名声はかえって高くなった」と自署に残している。
加藤唐九郎がやったことは、贋作行為ではなく、生命の継承だったのにちがいない。
今回は「秋津」を紹介。
―― 夕やけ小やけの あかとんぼ おわれて見たのは いつの日か……
童謡『赤とんぼ』の歌は、日本人であれば一度は口づさんだことがあるのではないでしょうか。
続きは……。
(220822 第808回)