手にしているものを人は落とすことがある。しかし胸にあるものは、たとえ転んだとしても私たちのもとを離れることはない
随筆家、評論家の若松英輔氏の言葉。著書『言葉の贈り物』にあった。「信と知」という随筆で、「信じる」ことと「知る」ことの間にある危険性を説き、真の信というものを紐解いている。唸り、うなずくこと数知れず。心眼が開かれる思いである。
なんでもすぐにわかる情報化社会の現代において、「ただ信じる」ということはむずかしい。
それでも人は、何かや誰か、自分自身を必要以上に信じたいと願う。
とりわけ、自分を信じるという「自信」を求める人は多い。
「自信がない」と嘆く人が多い一方で、自信満々で周りを辟易させる人もいる。
どちらがいいということではないし、悪いことでもないだろう。
だが、世の中の問題の多くは、「自信のなさ」が招いているような気もする。
個人の問題だけでなく、社会全体の問題も、突き詰めれば個々人の自信のなさが全体の不信につながっているのではないかと思うのだ。
だから、ことさら若松英輔氏の「信と知」の考察に感じ入った。
人との関係、ここでは愛する人との関係は、
「相手のことを過度に知ろうとするとき、信頼が崩れていく」として、人間関係の構築に必要なのは知ることではなく「深く信じ合う」ことだという。
誰かや何か、あるいは自分を信じたいと願うなら、それを知り得るものであると思わないように、と釘を刺す。
なぜなら、「信じるとは、知り得ないものとの間にだけ起こる出来事だから」だと。
若松氏の言葉をたよりに考察すると、自信とはつまり、未知なるものへの信仰心ともいえる。
わからないけれど、ただ一心に信じる。
目に見えないもの、この世界を統べる大いなるなにかに心をゆだねる。
それが結果的に「自信」につながるのではないだろうか。
根拠のない自信というものが、おそらくそれだ。
財産、権力、肩書き、人間関係、あるいは知識さえも、時がさらっていくことはある。
カタチあるものの多くは、失われる運命にある。
だがしかし、そのものへの想いが失われない限り、記憶のなかにカタチは生きつづけ、新しいカタチを生み出すこともできる。
「手にしているものを人は落とすことがある。しかし胸にあるものは、たとえ転んだとしても私たちのもとを離れることはない」
知らなくていいこともある。
失うかもしれないと恐れることもあるだろう。
それでも、ただ胸にあるものを信じよう。
知り得ない天を信じるように。
今回は「浮き橋」を紹介。
言葉とはふしぎなもので、使い方、語り方で、その意味も雰囲気もガラッと変わってしまいます。
「浮き橋」とは、水上に筏や舟をならべて、その上に板を渡した仮の橋のことです。続きは……。
(220830 第809回)