まわりがうるさいものにホンモノは少ない
生涯、書の道をひたすらに歩みつづけ、世界をも魅了しながら107歳という長寿をまっとうした書道家、篠田桃紅の言葉である。随筆集『墨いろ』のなかの「包装」という項にあった。石鹸の包みに対する一言で、いわゆる贈答品によくある包装のことなのだが、何事によらず当てはまるような気がした。
なにがホンモノで、なにがニセモノなのか。
そんなことは、きっと誰にもわからない。
わからないけれど、なんとなく「うさんくさい」とか「わざとらしい」とか、ニセモノっぽい感じがするものはある。
それも人それぞれ感じ方はちがうだろうが、不自然さが際立つものに心は落ち着かないような気がする。
「これはホンモノか、ニセモノか」
と尋ねられたら、とりあえず心がザワつかないほうを選んでおこう。
篠田桃紅さんの場合、石鹸の包装にザワつきを覚えたらしい。
「包装は実に色々とあって、一つ一つつぶさに見れば、意匠についてのそれぞれの主張とか考え方、あるいは夢とかを探ることも出来るのかもしれない」
しかし、包みこそ第一印象なのだから、
「さりげなく、小体に、控え目であることが、まず人への礼儀であり、重々しくもったいぶった包み方は無礼ではないか」
と、思ったそうだ。
包装というものは、
「中味を知り、中味を立て、中味を損なわないという制約が先に」あることが前提で、
「〝これは上等なんですよ〟というような押し付けがましい感じがするのは、あけながらだんだんウンザリして、中味も減点されてしまう」という。
このことを人でたとえれば、外見をどんなにつくろっても、中身が伴わなければしだいにボロが出てきて幻滅される、ということになるだろうか。
第一印象がよければなおさらである。
人もモノも、必要以上に華美で騒々しいのは見苦しい。
ホンモノかニセモノかはさておき、
まずは中身を知り、中身を立て、中身を損なわないよう、さりげない教養で身を包んでいくというのはどうだろう。
今回は「月の雫」を紹介。
―― 月のごと大きな玉の露一つ (高浜虚子) 夜空に浮かんだ満月が、大きな露玉に見えたのでしょう。露は別名「月の雫」。続きは……。
(220920 第812回)