わたしたちがよそよそしく通りすぎた一日が、未来において決然として贈り物となる
『マルテの手記』で知られる詩人、ライナー・マリーア・リルケの詩の一節である。生野幸吉訳の『リルケ詩集』にあった。冒頭の一片がタイトルになった「ほとんどすべての物から…」という詩だ。この世界がいかに五感をとおして一個人を創造しうるかを抽象的に描きだした、おそらくリルケの最高傑作のひとつだろう。
忙しなく過ぎてゆく日常で、ふと立ち止まって思い出すのは、特別な日の、特別な出来事ばかりではない。
いやむしろ、何気ない、まったく平凡な日常であったりする。
そのときは気づかないものの、振り返ってみると、何気ない日常や、何気ない出来事にこそ、重要な意味が隠されていたりする。
そのことを心身はちゃんと知っているのか、自覚せずとも無意識下に積み重ねてゆく。
そうして無意識下に眠っていた記憶は、香りや音などをたよりに、わずかな隙間をぬって浮かび上がってくる。
そのときにはじめて、
「ああ、あのときのあれは、こういうことだったのか」
と、ほんとうに大切なことに気づくのだ。
人生の後半は、その連続にちがいない。
だからこそ、後悔はしたくない。
リルケの詩に、そのことを切に思う。
「ほとんどすべての物から感受への合図がある、
向きを変えるそのたびに、思い起こせと吹きよせるものがある。
わたしたちがよそよそしく通りすぎた一日が、
未来において決然として贈り物となる。……」
今日という日は、二度ともどらない。
明日という日が、かならず来るともかぎらない。
考えてみよう。
未来において、あるいはこの世を去るときに、どんな贈り物を受け取りたいだろう。
今回は「さわやか」を紹介。
さわやかな風、さわやかな青年、さわやかな味……。「さわやか」という言葉には、どこか青い、ミントの香りのような、すっきりさっぱりとした、切れ味の良さを感じます。続きは……。
(221017 第816回)