原点回帰とは過去に遡ることではなく、新しい扉を開いていった未来で行きつく元の場所
某ラジオ番組で、ふと耳に入ってきた。アコースティック・ギター・デュオ、ゴンチチのお二人の、どちらかの言葉だったように思う。相方が「なるほど」と深く納得していたが、おそらく視聴者の多くは同じ思いだったにちがいない。筆者もそのひとりである。
こんな話だったように思う。
一方が、
「原点回帰というのは、初心を忘れるなと解釈されることが多いけれど、どう思う?」
と問うた。
すると、もう一方がとつとつと語り始めた。
「僕の解釈はちょっとちがう。原点回帰というのは、新しいことをどんどんやって、未来への扉を次々と開いていったら、結局、元の場所に戻った、という意味じゃないかな」
ここで、「なるほどな〜」と相方は大きくうなずく。筆者もうなずく。
原点に帰るというより、ずっと先に向かっていったら、いつの間にか元の場所にもどっていた。
だからそれは、過去ではなく、未来じゃないか。
過去に遡っていくというよりも、どんどん追求していくと、また最初のころの自分に出会う。
ここでは「自分」というフレーズは「音楽」だった。
あるミュージシャンが、やるだけのことをやった後に、初めのころの音楽性に戻っていたという話からの「原点回帰」の考察であった。
原点回帰は、あの時の方がよかったと捉えがち。
でも、そうじゃない。
突き進んでいくうちに最初の感覚を取り戻す。
もう一度、初心と「出会う」と捉えた方が新鮮だし、前向きで明るい、と。
この話を聞いて、茶湯の心得を思い出した。
「稽古とは一より習い十を知り 十よりかへるもとのその一」
千利休が百の歌をもって茶道の精神を説いたといわれる「利休百首」のひとつ。
日々精進を重ね、一から十まで習ったとしても、ふたたび一に立ち返ることで、習得したことが磨かれ、見落としていた所も見つけられるという教えである。
これは、世阿弥のいうところの「初心忘るべからず」だが、利休は同時に、ゴンチチのいう「未来型原点回帰」も言外に含めていたのではないか、と勝手に想像する。
繰り返し稽古に励んだり、新しい挑戦をしながら学んでいくうちに、原点である本来の自分と出会う。
人生は一直線に進むのではなく、円環を描きながらぐるぐると螺旋状に前へ進んでいるのではないか。
銀河もDNAも、音も水も、渦を巻いて進んでゆく。
茶湯の世界が宇宙観をあらわしているように、人生の原点回帰も宇宙のしくみとおなじだろう。
今回は「さわやか」を紹介。
さわやかな風、さわやかな青年、さわやかな味……。「さわやか」という言葉には、どこか青い、ミントの香りのような、すっきりさっぱりとした、切れ味の良さを感じます。続きは……。
(221025 第817回)