楽観主義者はドーナツを見、悲観主義者はドーナツの穴を見る
戯曲『サロメ』で有名なオスカー・ワイルドの、よく知られた名言である。楽観主義者と悲観主義者のものの見方のちがいを、これほど的確に言い表した言葉もそうないだろう。
「なるほど、まさに」とうなずきつつも、「いや、まてよ……」と小さな閃光が走った。
小さなことにこだわっていないで、もっと広く大きく物事を見よ。
そう、オスカー・ワイルドは言いたいのだろう。
ごもっともである。
「ドーナツの穴」の文字を見て、『チョコレートドーナツ』という映画を思い出した。
1970年代のニューヨークのブルックリンで、ゲイの男性が育児放棄された障害児を育てたという実話を下書きに創作された映画だ。
偏見によって社会から弾き出されたゲイの男性とダウン症の少年が、互いの心の穴を「真の愛情」で埋めていくというヒューマンドラマである。
健常者には理解できない非健常者の言動は、時として悲劇的な結末を生む。この作品もまた、悲劇で終わる。
非健常者の言動の核は「心の穴」だ。
当然、健常者にも「心の穴」はあるが、非健常者のそれには匹敵しない。
かれらの「心の穴」は、あまりに奥深く複雑なため、健常者には理解し難い。
だが、健常者もまた、何かが引き金となって「心の穴」を非健常者以上のものに変えてしまうこともある。
その穴を見ないほうがいいというなら、悲劇は繰り返されるにちがいない。
元首相が重篤な「心の穴」をもった男の銃撃に倒れた事件のように。
この映画の日本版キャッチコピーには、こう書いてある。
「僕らは忘れない。ぽっかりと空いた心の穴が愛で満たされた日々―」
真の愛情で心の穴を満たしていた彼らに悲劇をもたらしたのは、その穴を見ようとしない健常者たちだった。
オスカー・ワイルドの言葉は、もちろん正しい。
けれど、そこにもうひとつ加えたい。
「楽観主義者はドーナツを見、悲観主義者はドーナツの穴を見る。
しかし人格者なら、ドーナツの穴にドーナツを見るだろう」と。
今回は「秋麗」を紹介。
うららかな秋、「秋麗」は「しゅうれい」とも読みますが、もうひとつの読み名「あきうらら」のほうが、なんとなく秋の風情を感じませんか。続きは……。
(221102 第818回)