分からない場所にこそ、本当に知らなければならない真実が潜んでいる
作家の小川洋子さんのエッセイ集『遠慮深いうたた寝』で、この言葉を見つけた。終盤の「答えのない問い」というエッセイの中の一文だ。『アンネ・フランクの日記』の愛読者でもある小川さんにとって、ホロコースト文学を読むのは、答えのない沈黙に耳を済ませるのと等しいのだという。その理由が、これだ。
人は、多くの場合、分からないことを避けようとする。
目に見えないもの、耳に聞こえないもの、理解に苦しむことなど、自分の許容範囲外のものには、壁をつくるか、近寄ろうともしない。
養老孟司氏の言葉を借りれば、それは〝バカの壁〟。
聞きたくない。
見たくない。
知りたくもない。
本で、テレビで、ネットで、その情報を見聞きしたから、もうわかっている。
だから、それ以上、かかわる必要はないのだ、と。
もちろん、それでもいい。
ただし、それで「分かっている」とは、言えないはず。
「自分は知っている」とは、思えないはず。
ほんとうのことは、なにも知らないし、わからないのに。
養老さんは、この「バカの壁」に警鐘を鳴らす。
「知りたくないことに耳をかさない人間に話が通じないということは、日常でよく目にすることです。これをそのまま広げていった先に、戦争、テロ、民族間・宗教間の紛争があります」
小川さんは昔を振り返り、若い頃は「自分が一番の基準」で、理解に苦しむ本に対して「理解できない、と感じた時点で扉を閉ざし、自分とは無関係なものと決めつけていた」そうだ。
だが、長い間、「小説を読んだり書いたりしているうち、分かるか分からないかにこだわるのは、実にもったいない、と思うようになった」という。
「自分が理解できる範囲などたかが知れて」いるのだし、「その狭い枠にとらわれるのは、せっかくの自由を自ら放棄するのに等しいのではないか」と思い直し、「ちっぽけな私の存在を超えた、広大な世界に足を踏み入れなければ、真実にはたどり着けないばず」と、感じる場面が多くなったのだと。
なぜ、人は生まれ、死ぬのか。
なぜ、生きるのか。
なぜ、最もよき人々は帰ってこないのか。
なぜ、最良のものたちはみな死んでしまうのか。
なぜ、あのとき、あの場所で、あの出来事が……。
理由は、わからない。
この世は答えのない問いで溢れている。
それでも、その問いに寄り添うのだ。
分からない場所にこそ、本当に知らなければならない真実が潜んでいるのだから。
姿なきものに心の眼を開き、声なき声に耳をすまそう。
いまあらためて、心から、そう思う。
今回は「雪中花」を紹介。
白い6枚の花弁に、黄色い盃をのせた水仙。雪に覆われた土のなかで、いちはやく春のぬくもりを感じとって小さな花を咲かせるこの花は、江戸時代までは「雪中花(せっちゅうか)」と呼ばれていました。続きは……。
(230311 第833回)