「本当の自分(自信)」は、徹底的に争ったあとにも残る
解剖学者、養老孟司氏の言葉を著書『「自分」の壁』より拝借。勝手な解釈で、ちょっとだけアレンジさせてもらった。よって、出どころの名前は「伝」とした。何卒お許し願いたい。
「あるがまま」という言葉は、すっかり市民権を得て、今では日常的に使われるようになった。
「本当の自分」「自分らしさ」などと字面を変えて、登場することも多い。
それだけ、世の中が「あるがまま」とは程遠いところに行きついたということだろう。
その反転運動の原点回帰。
素(もと)の巣にもどって、そもそも「じぶん」とは何か、おなじ「いのち」の、他とはちがう己の「いのち」の役割とは何だろう、と自問自答する。
世界中で、この現象が起こっているというのも、実に興味深い。
「いのち」はつながっているという、生命体のなせる技にちがいない。
つながった「いのち」の一灯一灯は、何を燃料にして、闇夜を照らしながら歩み続けるのか。
おそらく、それが自分の持ち味、あるがままの自分。
それを信じる心、だと思う。
自然の分身である己の「いのち」は、何らかの役割を得てこの世に生み出された。
それを信じよう。
世間がどんなに認めなくても、己だけは己の存在を認めてあげよう。
養老さんは言う。
「世間に押しつぶされそうになってもつぶれないのが『個性』です。
誰しも世間と折り合えない部分は出てきます。それで折り合えないところについては、ケンカすればいいのです」
世間が勝つか、自分が勝つか、どちらが勝つかはわからない。
わからないけれど、それでも残った自分が「本当の自分」のはず。
「本当の自分」は、徹底的に争ったあとにも残る。
と、養老さん。
その過程を経ないと「本当の自分」は見えてこないのだと。
真似て、学んで、それでも同じようにできない。
「これ以上はどうしようもない、これがわたしだ」と、「あきらめ」の境地に達したところに、あるがままの自分がいる。
あきらめずに、ずっと信じて待ち続けてくれていた「本当の自分」である。
「本当の自分」は忍耐強く、謙虚で慈愛に満ちているのだ。
それが本当の自信。
偉そぶる偽の自信とは、ぜんぜんちがう。
今回は「立振舞」を紹介。
美しいことば、というより、美しい所作、と言ったほうがいいでしょうか。「立振舞(たちふるまい)」、あるいは「立居振舞」。この言葉には、どうしても「美しさ」が付きまとうような気がします。続きは……。
(230510 第840回)