指揮者にとって恐ろしいのは指揮のしすぎなのです
今年の2月6日に死去した世界的な指揮者・小澤征爾が1987年、ヘルベルト・フォン・カラヤンについて語ったときの言葉。
小澤は、カラヤンには指揮のしすぎということがない。指揮はうっかりすると暴力になってしまう。オーケストラの音楽的力を喚起させる、そこがカラヤンの素晴らしいところだと語った。
意外な気がした。帝王と崇められていたカラヤンこそは、「俺の美学に従え」的な指揮者だと思っていたからだ。
小澤征爾がずっと世界の第一線で活躍できたのは、自分の音楽的主張と演奏者の表現欲求のバランスを高い次元ではかり続けていたことではないだろうか。あるソリストは演奏の前、自分はこう表現をしたいと小澤に伝えるや、彼は沈思黙考し、「わかった。あなたの思うようにやりなさい。オーケストラがあなたに合わせるようにしますから」と返答したというエピソードを語っていた。
指揮者はオーケストラにおいて絶大な権力を付与されている。しかし、それがために落とし穴に陥る危険性もある。あくまでも「音」を発するのは演奏者である。指揮の〝しすぎ〟によって個々の演奏者の能力が封印され、音楽全体が貧困になっては元も子もない。
このことはあらゆる組織にあてはまることといえる。権力を発揮〝しすぎ〟るリーダーは、かならずどこかで行き詰まる。
つらつら考えるに、〝しすぎない〟リーダーこそ、日本人の真骨頂なのかもしれない。WBCで優勝に導いた栗山監督しかり……。
名刺の役職に「長」のつく人は、小澤征爾の言葉を心して噛み砕きたいものだ。
(240302 第853回)