日本人として覚えておきたい ちからのある言葉【格言・名言】

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紺碧の将

生きること、それが禅

安永祖堂

 臨済宗方広寺管長・安永祖堂老師の言葉。

 安永老師にとって禅とは理解するものではなく、生きることそのものと説く。

 世の中には無数の仕事、生業(なりわい)がある。そのなかから自分に合ったひとつを選び、心を込めて続けるうち、それが自分の人生と同化するとき、人はかけがえのない至福の境地を得るのではないか。

 しかし、往々にしてそういうことは珍しい。どうしても仕事は生きていくための糧を得る手段となってしまう。それもやむをえないことだろうが、それを「仕方のないこと」としていては、生業と人生が同化することはありえない。

 たとえば、そういう境遇であっても、生活のための仕事以外に生きる目的を見出すことはできないだろうか。人間の一生に与えられた時間を考慮すれば、けっしてできないことではない。

 

 英語を自在に駆使し、海外で禅を広めた鈴木大拙の『禅と日本文化』に、妖怪サトリのエピソードが紹介されている。サトリはもちろん悟りの隠喩である。

 ある樵(きこり)が木を伐っていたところ、サトリという妖怪が現れる。樵が捕らえようとしても心を読まれて捕えられない。樵があきらめて木を伐り始めると、たまたま斧の先端が柄から抜けてサトリのところへ飛んでいき、サトリを打ち殺した。

 

 禅語に「善射不中的」という言葉がある。射ようとすれば的に当たらないという意味で、無心の意義を説いている。相撲でも、優勝が目の前にちらつき始めると、とたんに心身がバラバラになり、失速することがしばしばあるが、まさにそういうことなのだろう。オイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』にも、的を射ようとすると射ることはできないというくだりがある。科学者が偉大な発見をするときは、意図せずして斧の先端が抜けて飛んでいくというようなケースが多々ある。

 現代人は、サトリを科学的に分析する傾向が強い、いっこうに捕まえられないのは、作為の塊になっているからだろう。仮にそれでサトリを得た気になっても、それはサトリの死骸でしかない。

 とにかく誰がなんと言おうと自分はこれをやっているときがいちばん愉しい。そういうものを見つけられたら、その人は幸せな人と言える。私にとっては、あれこれ考え、自分なりの表現をすること……かな。

 無心、無作為、一行三昧。この言葉の意味をあらためて噛みしめたい。

(250121 第872回)

 

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