世界で最も素晴らしく、最も美しいものは、目で見たり手で触れたりすることはできません。それは、心で感じなければならないのです。
通常のルートを辿るのであれば、目や耳や鼻や舌や肌を使って得た情報を、人間はまず脳に送る。
そして、過去の経験や知識、時には自分の嗜好をも動員して、その情報が「美しいか美しくないか」「素晴らしいか素晴らしくないか」を選り分けている。
だが、ごくまれに、そういうルートを辿らずに、美しい(美しくない)、素晴らしい(素晴らしくない)と直覚することがある。
もちろんそういった場合でも、対象に関する情報が脳を通過していることには違いないのだが、知性をもって良し悪しを判断することがとても陳腐に思えて、思考を放棄してしまうのだ。
ヘレン・ケラーのいう「心で感じる」という状態をあえて説明するなら、そういう現象だと思う。
横山大観も似たようなことを言っている。
「良い絵とは、ああっと言うだけで、ものが言えなくなるような絵だ。どうだこうだと言える様な絵、言いたくなる様な絵は大した絵ではない」。
言語による説明を放棄し、「美しい」「素晴らしい」と表現することすら忘れてしまう瞬間。
たとえば原始の時代に生きた、まだ言葉を知らない人類は、そういう瞬間に立ち会ったとき、どのような感動をその心に抱いただろう。
おそらくそのボリュームは、現代人の想像をはるかに超える巨大さだった。
言葉を獲得した私たちは、一見するとたいそうな進化を遂げたようにみえるけれども、その代償として、いったいどれだけのものを失ったのだろうか。
齢を重ね、言葉の操り方が巧みになるにしたがい、そういう思いが脳裏をよぎる頻度も増えていく。
(130416第70回)