私は少しも恐れるところがない。 私はこの世界に、何事かをなさんがために生まれてきたのだ。
病理学や細菌学の研究を通じてノーベル賞候補に三度も挙がるなど、世界の医学とりわけ風土病の克服のために大きな貢献をした野口英世。
幼少期、左手に大やけどを負い、家業の農業を継げなくなったことで英世は学問を志した。
15才の時、会津若松で開業していたアメリカ帰りの日本人医師により左手の手術を受け、いくばくかの機能改善をみた。これに感動したことが英世を医学の道へと導いた。
しかし、誰もがみな英世のように、世のため人のためになる大きな仕事に関われるわけではないし、自分の歩む道をドラマチックに決定できるわけでもない。
偉人の話を耳にしたときに生じる違和感の正体はそこにある。
自分の辿ってきた(辿るであろう)平凡な人生と無意識に比較して、ひとかどの仕事をなす人物になるためには、なにか決定的な出会いやハプニングめいた出来事が、あるいは生まれ持った特別の才能や性格や恵まれた環境が必要なのではないか。そんなものとは無縁の自分は、きっと平凡な人生のまま生涯を終えるに違いない・・・と。
だが、当の偉人たちは、そんな卑屈な自意識を持ちはしない。
英世の言葉が示すように、彼らが標榜し、日々の生活において携帯するのは、ほとんど何の根拠もない自信に裏打ちされた、たったひとつの志のみである。
「何事かをなさんがために生まれてきた」
これに気づいた人は迷いがない。
もちろん時々で立ち位置や仕事に変化はあるけれども、それぞれのコースを決めるときには迷わない。
この道を進むことで、何であるかはまだ判らないけれども、きっと何事かをなせるに違いないというある種の「妄信」がそこにあるからだ。
決して「偉大なことをしよう」「大きなことをしよう」と心に決めて、勇んでスタートダッシュをしているわけではないのである。
(130606第76回)