感謝は、高潔な魂の証である。
イソップ(寓話作家)
感謝といってもいろいろの形がある。
「ありがとう」という言葉こそ感謝の象徴だろう。
子どものころ、だれかに「ありがとう」を伝えたとき、そこには雑念などなかった。
あるのは、ただただ感謝の気持を伝えたいという素朴でまっすぐな心のみ。
だから、子どもの発する「ありがとう」は、ああも純粋で、ああも美しい響きなのだ。
だから、子どもから「ありがとう」と言われると、大人どもは、妙に照れくさくなるのだ。
「体裁」や「保身」や「虚飾」や、時には「見返りの気持ち」。
年を重ねると、いつしか「ありがとう」のなかに、そういう類の「思惑」をこめるようになる。
大人になるにつれて、純粋な「ありがとう」が減っていくのだ。
しかし人間は、純粋であるだけでは成長も成熟もしない。
高潔な魂を育てる強い意志をつねに持っていなければ、人間はたちまち堕落する。
では、感謝すなわち「ありがとう」は、なぜ「高潔な魂の証」なのだろうか。
それは、「ありがとう」を伝える瞬間だけは無私になれるからだと思う。
感謝の対象が自分であることもなくはないが、多くは自分以外の存在に向けられる言葉だ。
「ありがとう」を伝えている間だけは、自分を忘れ、利己から離れることができる。
相手を想い、心をこめて「ありがとう」と伝えることは、誰でもできる「利他の実践」である。
その繰り返しが、己の魂を磨き上げるのだ。
(130724第78回)