余裕がないからこそ「型」を忘れ、無我夢中になる
日本の武道や芸事では必ず「型」から入る。まずは「型」ありきということだ。
武芸・遊芸にかぎらず、なにごとも基本がしっかり身についてこそ、その先にある名人芸に行き着くことができる。
最近、『ないがままで生きる』という著書を発刊した玄侑宗久氏は、「ありのまま」の自分よりもさらに深くほりさげたところにある「ないがまま」の自分をみつめることの重要性を、わかりやすくユーモアたっぷりに説いている。
「型」を身につけるには、日々稽古に励むよりほか近道はない。
では、「稽古」とはいったい何なのか。
『広辞苑』によれば、稽古とは「昔のことを参考にしてものごとのわけを明らかにすること」と書いてあった。なるほど。「古き」を「稽(かんがえる)」から「稽古」なのか。
白川静氏の『常用字解』では、「稽」という文字の解釈に次のようなくだりがあった。
「禾形の標識の木のもとに犬を埋め、祝禱して降下する神を迎え、神がいたり神をとどめることを稽といい『いたる、とどまる』の意味となる。また、神を迎えて神意をはかることから『かんがえる』の意味にも用いるのであろう」と。
玄侑氏はこうつづける。
「相手が自分より弱ければ『型』どおり運べても、相手が強いと『型』など意識せず無我夢中になる」
稽古によって無意識の領域まで「型」を身につけるということは、神の領域に入り込もうとすることであり、そうやって身についた「型」を忘れて無我夢中になった瞬間、予想だにしなかった「神業」が生まれるのかもしれない。
(160207 第164回)