「主人公」の主人とは、他を使い生かし切り、そのものを喜ばせて自分は采配をふるっている立場である
立花大亀
「君のおかげでこんなに心がなく、物ばかりのいやな日本になってしまった。君の責任で直してもらわなければならない」
松下幸之助を前にしてこう言い放った人物こそ、大徳寺塔頭徳禅寺長老、立花大亀老師。
禅僧であった老師が、著書『死ぬるも生まれるも同じじゃ』で「主人公」という禅語について述べた一文である。
「主役」と「主人公」は似て非なるものである。
「主役」が物語りの中心人物であるのに対し、「主人公」は、どんなものも自分のものとして生かし切れる人物。つまり、脇役であっても主役を喰うほどの力がある人物ということだ。
相手が人であろうが物であろうが、良いか悪いかも関係なく、すべてを自分の糧とし、そのものを生かし切れる度量があれば、まわりに振り回されることも取り繕うこともなく堂々としていられる。
現代人の多くは、人生の主人公でありながら、主人の座を他の何かに奪われ、そのものの奴隷と成り下がっていると、立花老師は指摘する。
「あれが足りないこれが足りない、あれも欲しいこれも欲しい」と考えるのは、すでに奴隷になっている証拠なのだと。
「情報」しかり、「時間」しかり、「モノ」しかり、「他人」しかり……。
巡り巡って自分のところにきたもの、出会ったものであれば、そのものを大切に生かし切ってこそ、本当の意味で人生の主人公になれるのだ。
(160329 第180回)