季節の営みの、まことに律儀なことは、ときにこの世で唯一信頼に足るもののように思える
映画やドラマ化された小説『西の魔女が死んだ』の作者、梨木香歩。彼女の作品の多くは、植物を背景に生きとし生けるものの存在と役割、その死生観を描く。この言葉は、小説『家守奇譚』から抜粋した。美しい言葉の連なりに、作者の人となりがうかがえる。
信じるの「信」は「まこと」とも読む。つまり、嘘偽りがないということ。
信頼、信用、自信、忠信、確信、信条、信念、盲信…と、あげればきりがない。
今の世の中ほど「信」とつく言葉が氾濫している時代もないのではないかと思う。上記にあげた熟語は、その代表とも言えるだろう。
これほど「信」が多用されるということは、裏を返せば「信」に値する現状ではないからかもしれない。
まずは「信」の言葉の意味を再確認する必要がある。
そして「信」のもうひとつの顔。
信号、電信、音信、発信、返信、交信などの「合図」や「便り」という意味。
「季節の営みの、まことに律儀なことは」、容易に見てとれるではないか。
万物がその生を謳歌する春、迷うことなく天に向かって伸びる夏、熟した果実はときに渋みを併せもつ秋、過ぎし日の影を引きずりながらも再び生まれくる時を思い永遠の眠りにつく冬。
幾星霜、一時たりとも休むことなく繰り返されてきた営み。
「信」を体得しようとするならば、この世で唯一、揺るぎない「信」を表現する自然の働きに目を向けてみてはいかがだろう。
(160613 第205回)