努力には2種類ある。一つは「直接の努力」であり、もう一つは「間接の努力」である
『五重塔』で知られる明治の文豪、幸田露伴は、博学はもとより、教養の高さにおいても群を抜いていることはよく知られているところである。その露伴が教える努力の仕方が書かれた『努力論』の中の冒頭がこれだ。厳密に言えば、漢語調で書かれた原文を作家の齋藤孝氏が書き下したものから抜粋した。原文はあまりにもむずかしすぎて、現代人には歯が立たないらしい。
「努力」と聞くと、眉間にしわをよせて苦しさに耐えているというイメージがつきまとうが、本来はそうではない。
努力を努力と思うこともなく、淡々とやるべきこととやりたいことをこなすうちに、結果が自ずとついてきた、というものが本当の努力の跡なのだ。
そのことは、露伴も同じことを言っている。
「努力を忘れて努力することが真のよいものである」と。
露伴のいう「直接の努力」と「間接の努力」とは、目の前の目標に心を尽くして精一杯がんばるものと、将来に備えて準備をするもの。つまり、さしあたっての努力と基盤となる努力のことである。
この2つの努力のどちらが欠けてもだめだし、努力する方向がまちがえば骨折り損になってしまうという。
そうならないための要点を教えよう。どちらの努力にも共通点があるのだ。
「努力を楽しんでいるか」「シンプルに生きているか」
なるほど、努力を努力と思わないのだから楽しんでいるはずだし、物心ともによけいなものを背負い込んでしまうと集中できないからシンプルに、ということか。
(160616 第206回)