釈尊でさえ絶対化すればその奉る心は停滞する
僧職のかたわら執筆活動を行う芥川賞作家、玄侑宗久氏は何度も本欄で取り上げた。この言葉は氏の著書『仙厓 無法の禅』から抜粋した。
仙厓義梵は言わずと知れた禅僧で画家だが、晩年の軽妙洒脱でユーモアに溢れた禅画を目にした人は多いのではないだろうか。墨で描かれた「○△□」は有名だが、これなどまるで子供が描いた落書きのようだ。
「霊山拈華一場敗闕(りょうぜんねんげいちじょうはいけつ)」
「霊鷺山で釈尊は華を拈じ、ひとり微笑した摩訶迦葉に法を伝えたとされるが、あれは大失敗だ」という意味らしい。
玄侑氏が住職を務める福島県三春町の福聚寺本堂に、仙厓の書いた文字が左右の聯(れん)に仕立ててあるという。
ちなみに、対の文字がこれだ。
「多子分坐満面慚紅(たしぶんまんめんにざんくす)」。
「多子塔の前で摩訶迦葉に座を分かち、袈裟で隠してこそこそ付法したようだが、まったく恥ずかしく赤くなっちゃうよ」
と、玄侑氏が訳せばむずかしい言葉も力が抜ける。
仏教で有名な「拈華微笑」の教えを、仙厓はいともあっさりと批判する。
なぜか。
「釈尊でさえ絶対化すればその奉る心は停滞する」と玄侑氏は捉える。
つまり、自由自在の心とは何かを言っているのだ。
正しいと思うことも、それに囚われてしまうと周りが見えなくなる。
仙厓が行き着いた境地が幼子の姿であったように、子供の見る世界は何ものにも囚われてはいない。
そこにあるのは、好きか嫌いか、楽しいか楽しくないか。
ただそれだけ。
大人はすぐに理由をつけたがり、勝手な解釈をする。
そんなことを言ったら世の中すべてそうなんだから、玄侑さんが言ってることだって…となりかねない。
あまり余計なことは言わないでおこう。
こんな説明をしていること自体、仙厓さんに鼻で笑われそうだし。
何を信じるかはあなたしだい、ということか。
(160916 第236回)