花は心、種は技
『風姿花伝』より
『風姿花伝』からの抜粋は、以前も本欄で紹介したことがある。
古くから伝わる能の口伝書とはいえ、その内容は能の世界だけにとどまらない。
普遍的な人生訓は、いつの時代にも新鮮な響きをもって琴線をふるわせる。
何かに行きづまり、ふと立ち止まったとき、人はようやくその視線を自然に向ける。
道ばたに咲くちいさな花や、じっとだまって立っている木々。
一木一草に命を見、懸命に生きる動植物にはげまされる。
「そうか、そうやって生きればいいのか」と、物言わぬ生き物たちに教えられる。
花が咲く姿を見て、能を演じる役者が輝く瞬間というのはこういうことかと、世阿弥は気づく。
なるほど、芸の道理は花が咲く道理と同じではないかと。
人の生きる道理も、そう違わない。
花は心、種は技。
花が咲くのは種があってこそ。
「花といっても、その種は去年に咲いた花から得られるものです。能も、たとえそれが前に見た演目であっても、たくさん数を極めれば、そのすべてを演じ尽くすまでには膨大な時間がかかります」
長い歳月が経ったあとに同じ演技を見れば、また新鮮な感情はわくものだと、世阿弥は言う。
そのときどきで咲かせる花は、ころころと移り変わる心の姿、世の姿。
花の姿は、その種に蓄えられた技であり心持ちである。
(170429 第310回)