問いを解くとは、それと一つになることである
日本の禅文化を広く海外へ発信した禅の大家、鈴木大拙の言葉だ。
哲学者の梅原猛にして「近代日本最大の仏教学者」と言わしめた、国際的にも著名な仏教哲学者である。
禅を言葉で理解するのはむずかしい。いわんや、書き記すことや解読をやである。
なぜ?
どうして?
と人は思う。
しかし、人間以外の動物に「なぜ」はとうていありえない。
お腹が空くから食べる。
う●ちがしたいからする。
「?」と思って好奇心に駆られればクンクン嗅いで正体を突き止めようとするし、危険を察知すれば近寄りもせずに逃げてゆく。
「なぜ生きるのか」と思索にふける犬はいるだろうか。(いたら見てみたい)
「何をしたいのか」とふらふらさまようネコなど、車に轢かれてしまうか空腹でのたれ死ぬのがおちである。
大拙翁はこうも言う。
「問いはけっして問う者から引き離されるべきではない」と。
問うということは、問う者が自己を実在から引き離してみたとき、客観的になったときにはじめて可能になるのだと。
「これは何か」「なぜ、どうして」と問うことは、人間だけに許された特権である。
だからこそ「悩み」が生じ、「幸不幸」が生じるという負の一面はあるにせよ、人間だけの特権と考えるなら、そこに重要な意味が隠されているはず。
問うことで人類は進化し続けてきた。
一個人の問いは、全体の成長につながる。
「問い」は前進のあかしであり、頭に浮かんだ問いは湧き水と同じ。
そこに水源があることを示している。
深く掘り起こせば、豊かな恵を得られるにちがいない。
(170610 第324回)