われわれは知性に生きるのではなく、意志に生きるのだ
数回前にも登場した鈴木大拙の言葉をもうひとつ、紹介しておこう。
著書『禅』には難解な禅の端緒が無数にちりばめられている。それゆえ、なんとなく禅がわかったような気になってしまう。勘違いもはなはだしい…か。
禅とは何か?
教外別伝、不立文字、直指人心、見性成仏。
この四つをもって禅とする。
ゆえに、禅とは何か?
大拙翁いわく、
「禅は事実を扱うものであって、一般論を語るものではない。禅は人格の根源に直入する」
ということらしい。
はて?
ますますわからん。
と、思ったあなたに、大拙翁はさらに続ける。
「われわれは知性に生きるのではなく、意志に生きるのだ」と。
これが禅であると。
つまり、禅とは「こうあるべき」という社会(他人)が作りだした、規制や論説にもとづくものではなく、個々人の中から生まれた意志や考えによる行動だという。
知識で得た「こうあるべき」が、いつの間にか自分の中の「こうあるべき」にすり替えられると、それに囚われて身動きが取れなくなり、生きづらくなってしまう。
大拙翁も、はっきりと言い切っている。
「禅とはひとりひとりの実際の体験であって、分析や比較によって得られる知識ではない」と。
なにやら小難しい話になった。
つまるところ、他人の意見ではなく、自分意志で決定、行動せよと言っているのだ。
それが禅を体得することになるのだと。
(170623 第328回)