身を使う中にも心根あるべし。身を強く動かす時は足踏みを窃むべし。足を強く踏む時は身をば静かに持つべし。これ、筆に見え難し。相対しての口伝なり
『風姿花伝』から、世阿弥の教えのひとつを紹介しよう。以前も別の教えを紹介したことがある。
これは第七章、別紙口伝の中のひとつで、鬼人を演じるときの心得を説いている。
つまり、怒れるときこそ、やわらかな心を忘れてはならないということを具体的に説明しているのだ。
現代語訳にすると、
「体を激しく動かす際も、繊細な心遣いが必要。体を動かすときは、足踏みをそっと優しく、音がしないようにすること。また、足を強く踏むときは、体を静かに保つこと。
これは文章で説明するのは難しい。本来は、直接口頭で伝えるべき口伝なのだ」
ということらしい。
怒れるときこそ心穏やかに、というのは頭ではわかっていても、なかなかむずかしい。
しかし、そこに人間としての器が現れる。
怒りが起こったときは試されているとき。
そんな場面に遭遇すると、人生とは、なんと修業の場であることよ、と思わせる。
一方で、この教えを違った角度から解釈してみるとどうだろう。
「事を起こそうとするときは本来の自分を忘れず、行動するときは動中静(どうちゅうのじょう)の精神で、行動しないときも軸はぶれないように。動くときも動かないときも、周囲の声にまどわされず、心静かであること」
というように。
平常心、不動心、動中静・・・。
解釈の仕方は自由でいい。
結局、人間みな陰と陽でできているのだから、体(動)と心(静)のバランスをうまく保つことが重要だということなのだろう。
(170930 第359回)