人はモノを追求するのではなく、モノの追求を追求する
名著『パンセ』で知られるブレーズ・パスカル。「人間は考える葦である」という言葉があまりにも有名すぎて他の名言は影を潜めているが、以前にもひとつ紹介したことがあるし、この言葉などまさに人間の本質を浮き彫りにしているように思う。
フランス文学者の鹿島茂氏は、この言葉の意味を的確にこう表現している。
「つまり、人は困難を克服するという達成感が大事で、何を得るかはじつはどうでもいいのです」
言い得て妙である。
「もっと、もっと」と求めることは、あまりよろしくないと論語はいう。
「足るを知れ!」と。
がつがつするのはみっともないけれど、何かを追い求めることそのものは悪いことではないと思う。
現状に満足しすぎると、それ以上の成長はないだろうし。
人は成長しつづける生き物なのだから。
物質的なものはもちろん、非物質、精神的なものの獲得は、満足感を得られるのも事実。
しかも高度であればあるほど、満足度は高まる。
それが、パンセの言う「モノの追求を追求する」ことであり、鹿島氏の「困難を克服する達成感」なのだ。
さて、この真理の裏に隠されている本願がまたすごい。
鹿島氏いわく
「達成した偉業を人に認めてもらい賞賛してほしいという自己認知願望がある」のだそうだ。
それを鹿島氏は〝ドーダ理論〟と命名している。
「ドーダ、すごいだろう、まいったか!」の「ドーダ」である。
声高な「ドーダ」もあれば、無言の「ドーダ」もあるだろう。
それはきっと、動物としての生存本能のひとつなのかもしれない。
たとえばゴリラの群のボスたちの権力争い。
たとえば、とりどりの花や香しい花たちの虫への誘惑。
生き物はみんな、存在をアピールしなければ生き残れないし、子孫を残していけないのだから。
(171024 第367回)